#沖縄 慰霊の「知られざる歴史」( #摩文仁の丘 #平和の礎 #健児の塔 #チビチリガマ #金城実 #報道特集 )

今年は22日から2泊3日で沖縄に行く予定だ。

その前の17日のTBSテレビ「報道特集」で

いままで知らなかった沖縄戦慰霊の歴史を知った。

まず4月2日に行われた

読谷村チビチリガマの慰霊祭。

祈りを捧げる彫刻家の金城実さん。

集団自決死があったこの地で

チビチリガマが我々にたたきつけるように

 警告する。戒めとして。」

いまの沖縄の軍事力強化に危機感を持って。


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「とくに遺族の皆さんが(問うているの)は

 歴史を学習したかということ。」

「歴史は取り戻すことは出来ないんですよ。

 しかし、学習はできる。

 なぜ戦争が起こる前に我々が何をしたのか、

 最も学習させてくれる場所が

 チビチリガマだということなんですよ。

 それは摩文仁の慰霊の塔にはない。」

それはどういうことなのか?

糸満市にある平和祈念公園

1965年に当時の佐藤栄作首相が

沖縄を訪問したあとに

この地を琉球政府立公園に指定した。

その3年前から32府県による

慰霊塔の建設ラッシュがあった。

しかしそれは戦前の価値観による

大東亜戦争」による「国家の栄光」の

「戦争の大義」で「英霊」を弔うといった

言葉が並んでいた。

そして各都道府県の慰霊会のために

「殉国美談」が並べ立てられる

観光バスガイドとして、

参議院議員糸数慶子さんもそこにいた。


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糸数さんはそれに疑問を感じて会社に訴えるも

みんなでそうするように決められているからと却下された。

しかし元ひめゆり学徒からそれを指摘されたことで

被害を負った住民側に立ったガイドをするようになったと。

摩文仁のガマは日本軍の司令部が移ったあとに

多くの住民の遺骨が戦後に残った。

南北の塔(糸満市真栄平)、魂魄の塔(糸満市米須)、萬魂の塔(糸満市国吉)。


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住民の手によって建てられた骨塚は

反対の声があったのにも関わらず

遺骨だけがある日こっそり

摩文仁国立沖縄戦没者墓苑に移されてしまう。

その理由は

戦傷病者戦没者遺族等援護法」が

沖縄戦に適用されたことで

軍人軍属のみならず

住民までが「戦闘参加者」として

援護金が受け取れるようにしたが

その結果、住民たちが靖国神社に合祀され

集団自決死は「なかったこと」にされてしまう。

公園の中にある「平和の礎」は

沖縄師範の卒業生で学徒動員された

大田昌秀氏が沖縄県知事の頃に

健兒の塔にお父さんお母さんが来て

自分の息子がたった一行並んでいるのを見て

夕方まで座り込みながら

それを見て涙を流しているのを見て

この人がこの世に生きていたんだという

唯一の証拠だといって

それで沖縄の犠牲者の名前を刻んだということも

初めて知る。

「(前略)白骨累々たる状況を名前でもって表す。

 遺骨の代替物として全戦没者を刻銘する。

 軍隊中心の慰霊の塔と

 住民と一個人中心の平和の礎。

 それをどういうふうに見ていくのかが

 いまものすごく問われている状況だと思うんですよね。」

沖縄国際大学名誉教授・石原昌家さん)

最後に「ガフマヤー」の具志堅隆松さん。

いまも本島南部の遺骨収集を行っているが

亡くなった人の気持ちに寄り添うために

どうすれば良いのかを考えて、

「国がやってることは

 戦争の被害を見えなくしようとしているのではないか。

 現場を残し戦死の痕跡を残すことは

 慰霊そのものだと思っている。」

沖縄戦跡を見つめて

その歴史を知ることは

これからの平和を創ることで極めて重要だと思う。

しかしいまの沖縄は真逆の道を進んでいる。

もう一度見つめ直したい。

23日は那覇市の空襲の跡を知るための

フィールドワークに参加する。

あの時犠牲を負ったすべての人々の心に

これからも寄り添って行きたい。

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