中山きくさん逝く(沖縄戦・元白梅学徒隊)

もう一度お会いしてお話を聞きたかった。

2020年に行った時は慰霊祭はやらないと

早合点して朝早く白梅の塔に行った。

それが間違いだったのかもしれない。

この塔に集い同級生の霊を弔い

そして自らの体験を次の世代の学生たちに語り伝えてた

元・白梅学徒隊同窓会(旧沖縄県立第二高等女学校)会長の

中山きくさんの訃報をきのうの夜に知った。

94歳だった。

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私は以前に買った

「きくさんの沖縄戦」を本棚から出した。

その中に琉球新報の紙面(りゅうPON!)が

はさんであった。2015年の6月21日だった。

未来に伝える沖縄戦のまんがで

当時16歳だったきくさんが終戦の年の3月6日に

日本軍の衛生看護教育隊に入隊し、

兵士の手当てに当たるための看護教育を受けたが

23日からアメリカ軍の激しい爆撃が始まったため

わずか18日で打ち切られ、

24日には八重瀬岳(いまの八重瀬町)に置かれた

第一野戦病院に補助看護婦として配属される。

「きくさんには忘れられない患者がいる。

 その人は開南中学校の鉄血勤王隊員。

 きくさんと同様学徒隊である。」

「フム…よし」「あそこへ連れていけ」

「死にゆく者に貴重な薬を使えん」

「壕入り口にある偽装小屋の近く

 生存の見込みがないと判断された者は

 ここで死ぬまで放置される」

しかしきくさんは軍医や看護婦に隠れて

その患者の手当てをしたのだった。

おそやく助からないだろう。

でもやらずにはいられなかったと。

そして6月4日、突然病院壕の閉鎖が告げられ

南のほうに逃げることになったが

1か月も彷徨して追い込まれて自決まで迫られた。

しかしアメリカ兵に捕まり捕虜となったことで

命が救われた。

その後に22名もの同級生が死んだことに

申し訳ないと思い続けた。

このことを語り伝えたことで

白梅学徒隊の足跡をめぐるプロジェクトや

野戦病院跡の壕に案内版・説明版を設置させるなど

きくさんの行動は

沖縄戦を風化させない未来への継承につながった。

いま沖縄がすべて軍事基地になる動きが

活発になっている。

私たちがきくさんから渡された

「平和へのバトン」は本当に重い。

これを大事に伝えなければ。

心よりご冥福を申し上げます。

(白梅の塔慰霊碑前のお地蔵様の祈りのポストカードより。)

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