これまで沖縄の八重山諸島の戦争に関わることといえば
住民がマラリアに多数感染したことなどが知られているが
従軍記などがあまり聞かれることがなかった。
それが19日の東京新聞夕刊で
自身の体験を綴った記録が
2006年に亡くなった山口武夫さん。
出征した1938年から45年までの従軍記を
手書き原稿用紙約550枚に書いて
それを4冊にまとめたもの。
1944年11月に伊良部島に入り
翌年5月4日に英国艦隊から
大規模な艦砲射撃を受け
「急坂の岩の間にヤットのことで
蛙のように身を伏せたままで
身動きすることなど全くできない。」
「頭の上を大きな松の巨木や
いろいろの樹木が根こそぎのまま、
また岩石が木の葉のように跳び交い(原文まま)」
と破壊の限りをつくした猛烈な射撃だったことを。
そして6月に宮古島に移っても
激化する空襲のなかを生き延びて終戦。
「一時の間断なく襲いかかり(中略)
爆弾はシュルシュルシュルと無気味な音を立てて落下し、
その姿がありありと見える。」
8月15日は所属部隊の創立記念日だったことから
大切に保管されていた白米が分け与えられたが、
「胃が物凄く苦しい。
長い間、野草の葉や茎の塩汁だけを食べていたので、
胃が小さくなっていたのである。」
お米のごはんを受け付けられないほどの
困窮の中を焼夷弾から逃げ続けていたのである。
想像を絶する苦しみだ。
19貫(約70㌔)あった体重も
終戦後は11貫(約40㌔)まで減ったのだと。
山口さんの次男で
町の歴史と民俗の博物館「ミュゼ」館長の通喜さん(67歳)は
「従軍体験を口にすることは少なかった。
でも後世へ伝える使命感にかられ、
代わりに文字で残さなければと考えたのかもしれない」。
いまの宮古島は
琉球弧を守るためとかいって
陸上自衛隊のミサイル配備を積極的に進めているが
まさにこれは山口さんの体験した
飢えと孤立と容赦ない攻撃を自ら待ち望んでいる
悪しき「戦争への道」そのものではないのか。
宮古島の人々に届けたい真実の歴史である。
「このたびの戦争は日本民族の
大きな試練であり、また反省でもあった。」
これも山口さんの遺した言葉。
いまの日本人は本当に反省しているのか。
それさえも疑わしきなってくる。