#関東大震災 #朝鮮人虐殺 #千葉県 での「点と線」( #新聞うずみ火 )

私はこれまで関東大震災における

朝鮮人虐殺を追悼する碑を見てきた。

住んでいる千葉県でも

船橋の馬込霊園、野田市の福田村事件の碑

そして八千代市高津山観音寺も。

しかしこれだけじゃありませんよという

事実を見た。

「新聞うずみ火」の最新号(通巻213号)の

栗原桂子さんが

「千葉県における関東大震災朝鮮人犠牲者

 追悼・調査実行委員会」の

フィールドワークに参加した(6月11日)

記事だった。

まず、平方千恵子さん(83歳)が案内したのは

船橋市北口に近い天沼弁天池公園。

この場所で38人の朝鮮人たちが

虐殺された。「えっ!」と驚いたが

馬込霊園の碑に書いてある事実はここにあったということだ。

当時は北総鉄道(いまの東武アーバンパークライン)の工事中で

その38人はその労働者で

鎌ヶ谷飯場から針金で後ろ手に縛られて

海軍の船橋無線電信送信所に連れていかれた。

いまの行田団地(公園)がある場所だ。

「しかし海軍に拒否され、駅近くの

 船橋警察署に行く途中、

 500人ともいわれる群衆に襲われました。」(記事より一部抜粋)

ちなみにいまの慰霊碑は市内の火葬場(いまの本町付近)にあったのを

移転する際(1963年)現在地に移設されたが

そのときに碑の下に遺骨がないことがわかり

当時の警官が後に朝鮮相愛会が現場を調査に来るというので

掘り返して火葬し、その骨の始末がつかないので

やむなく周辺の田んぼに埋めたと聞き

地域の老人が「仏壇の中に地図があるからそこを掘れ」と

話したことがわかり言われた通りに掘ったら

約100体の遺骨が出たのだ。

殺されたあとも遺骨そのものも「なかったことにしよう」と

した隠蔽工作をやっていたのだ。

これは今まで知らなかったことだ。

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フィールドワークでは前述の観音寺からも近い

八千代市高津地区の「なぎの原」も回ったのだと。

ここでは震災後の6~9日にかけて

6人が殺された。

「地域でひっそりと供養していたのです。

 卒塔婆があり、こぶしの木が埋めた場所の実印だと

 聞きました。」(前のカッコ内と同じ、いずれも平形さん。)

追悼の実行委員会が結成されたのは1978年、

83年から住民と共同で追悼行事を実施、

98年に遺骨が掘り起こされ

観音寺の慰霊の碑に移されたのだ。

船橋に比べるとその数は少ないが

地元の中学校の郷土史クラブなどの聞き取りで

「当時を知る人たちの重い口を徐々に開かせた」ことで

いま周辺の無縁仏の墓にも犠牲者たち(4地区18人)

が眠っていることがわかったが

もっと多いはずだと平形さん。

当時の軍が内部で口止めした公的な記録は隠されたままで

解明すべきことはたくさんあるのだと。

そしてこれらの現場を「点」だとすれば

ちゃんとした「線」があった。

1923年9月3日の朝に

内務省警保局長が地方長官に宛てた電文だ。

そこには朝鮮人が震災を利用して

東京市内(当時)で爆弾を保持して

「石油を注ぎて放火するものあり」として

その行動に「厳密なる取締」をという内容だ。

もちろんウソだが

「公式の電波をうそだと思うのでしょうか。」(平形さん)

これを受け取った前述の送信所長が

民間人の警防団に送電所を警戒させて

武器を渡した上に「朝鮮人を殺していい。」と

のちに警防団長は

「褒美がもらえると思ったら裁判にかけられた」と

実行委員会に証言したが

所長は何の罪にも問われなかったという。

政府が流したデマが多くの犠牲を生んだ歴史は

風化されて忘れられやすい。

世間の関心の問題以上に

いまの「国」が意図的にそうさせていることも

しっかりと見つめていかなければいけない。

私も船橋習志野の歴史の跡を

行ってみようと思う。

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