1988年のNHK特集「夏服の少女たち~ヒロシマ・昭和20年8月6日~」を見て

きょうは広島原爆投下の日。

その2日前の4日夕方に

NHK特集の再放送を見た。


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最初から忘れていたことを見つけたのだ。

1988年、まだこの頃には

原爆で子どもを失った親の世代が

生きていた時代だったのだ。

奥津トシさん、当時98歳。

夫を1944年に亡くし、

そして娘の牟(ひとみ)さんを原爆で失ったのだ。

広島第一高等女学校(いまの広島皆実高校)。

なぜ、題名が夏服の少女たちだったのか。

牟さんや、クラスメートだった大下靖子(のぶこ)さんや

奥津敏子さんらが遺した日記などから

合着から夏服の制服をつくることになった喜び、

この夏服を着ることで

県立第一高女の生徒になれるという実感と喜び。

しかし白い服とセーラー襟は敵の標的になって危険、

そして布地が不足していたことから

家から持ち寄った着物をほどいて

へちま襟をつけた「戦時服」のような夏服だった。

それでも喜びがあった。


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そして8月5日にその記録がなくなったこと。

朝早くから建物疎開の作業に徴用された場所で

被ばくし、そのまま避難所などで亡くなったのだ。

大下さんの両親は娘が着ていた

夏服を持っていた。

しかし既に80歳を過ぎて

原爆資料館にこの形見を授けたのだ。


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いつまでも亡くなった娘の面倒を見ることが出来ないからだと。

果たして今年G7サミットで各国首脳は

この夏服を見ただろうか?

奥津トシさんは牟さんの遺体を見つけて

自分の手で河原で焼いたという。

今では考えられないだろう。

そして牟さんば眠る墓に自分の名前を彫った。

牟さんの隣に。

いつまでも共に親子としてつながっていると。

あれから35年経っている。

トシさんも大下さんの両親も

既に亡くなられているのではないか。

そして原爆で死なずに生きている人の数も

減る一方だ。

はだしのゲンの削除をめぐる問題もそうだが

これから語りつがなければならない体験や経験と

歴史の跡をどう残していくのか。

「あちこちのすずさん」も一つの方法だが

このような過去の番組も

もっと放送したり配信してもらいたい。

あの頃でなければできなかったことが

貴重な存在になっているのだから。

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