きょうは広島原爆投下の日。
その2日前の4日夕方に
NHK特集の再放送を見た。
最初から忘れていたことを見つけたのだ。
1988年、まだこの頃には
原爆で子どもを失った親の世代が
生きていた時代だったのだ。
奥津トシさん、当時98歳。
夫を1944年に亡くし、
そして娘の牟(ひとみ)さんを原爆で失ったのだ。
広島第一高等女学校(いまの広島皆実高校)。
なぜ、題名が夏服の少女たちだったのか。
牟さんや、クラスメートだった大下靖子(のぶこ)さんや
奥津敏子さんらが遺した日記などから
合着から夏服の制服をつくることになった喜び、
この夏服を着ることで
県立第一高女の生徒になれるという実感と喜び。
しかし白い服とセーラー襟は敵の標的になって危険、
そして布地が不足していたことから
家から持ち寄った着物をほどいて
へちま襟をつけた「戦時服」のような夏服だった。
それでも喜びがあった。
そして8月5日にその記録がなくなったこと。
朝早くから建物疎開の作業に徴用された場所で
被ばくし、そのまま避難所などで亡くなったのだ。
大下さんの両親は娘が着ていた
夏服を持っていた。
しかし既に80歳を過ぎて
原爆資料館にこの形見を授けたのだ。
いつまでも亡くなった娘の面倒を見ることが出来ないからだと。
果たして今年G7サミットで各国首脳は
この夏服を見ただろうか?
奥津トシさんは牟さんの遺体を見つけて
自分の手で河原で焼いたという。
今では考えられないだろう。
そして牟さんば眠る墓に自分の名前を彫った。
牟さんの隣に。
いつまでも共に親子としてつながっていると。
あれから35年経っている。
トシさんも大下さんの両親も
既に亡くなられているのではないか。
そして原爆で死なずに生きている人の数も
減る一方だ。
はだしのゲンの削除をめぐる問題もそうだが
これから語りつがなければならない体験や経験と
歴史の跡をどう残していくのか。
「あちこちのすずさん」も一つの方法だが
このような過去の番組も
もっと放送したり配信してもらいたい。
あの頃でなければできなかったことが
貴重な存在になっているのだから。