#関東大震災 #群馬 と #埼玉 の県境でおきた #朝鮮人虐殺 事件( #藤岡事件 #上毛新聞 )


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きのうは東京の中で起きた

関東大震災での朝鮮人虐殺についてのことを書いたが

新聞うずみ火の最新号で

「藤岡事件」のレポ記事があったので

このことを記録しておきたい。

1923年9月1日の東京を中心に起きた大地震

同じ関東の群馬県でも

前橋市は震度4、負傷者9人

 倒壊家屋49棟、半壊8棟」

鉄道、通信にも影響が出た。

そこに東京方面から4万8000人余りが避難してきたが、

途中の道中にあたる

「熊谷57人、本庄88人、上里町(旧神保原村)42人」もの朝鮮人が、

4日に自警団や旧中山道周辺の群衆によって虐殺される事件が

起きたのだ。


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この原因は、地震後の3日に

内務省警保局長が各地方長官(知事)に

朝鮮人の取り締まり」を命じる電文を

船橋の海軍無線電信送信所から送ったことからだ。

避難の最中に「不逞鮮人」として検束された

朝鮮人たちはそのまま「駅伝護送」で

中山道を北上させられたときに

付き添いといいながら自警団たちが

威嚇したり殴ったりしたというから

「公開リンチ」といったほうがわかりやすいかもしれない。

さらに本庄や神保原では

群馬県方向に向かった朝鮮人の引き継ぎを

同県新町の自警団と藤岡警察署が拒否したことにより

埼玉方面に引き返したときに

虐殺を受けたとされている。

当時の「上毛新聞」は4日に

「足利(栃木)に300人が下車 井戸水に投毒が目的か」

「爆弾を携帯していた朝鮮人3名が高崎駅で逮捕された」

という記事を掲載したこともあり

朝鮮人を過剰に警戒し、やがてパニックを起こし

それが虐殺へとつながっている。

そして4日に起きたことを重く見た

藤岡警察署は5日未明に

神流川で砂利採取に従事していた12人

行商人3人、自ら保護を求めてきた1人を収容したが

そこに自警団などが押し寄せ

2000人に膨れ上がったその群衆が

カギがかかっていなかった留置場を襲撃し

16人を虐殺、

6日には隣村から自警団に連行された1人も殺害された。

これが「藤岡事件」なのだ。


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17人の遺体が藤岡町長(当時)の依頼で

いまの藤岡市内にある成道寺に埋葬され、

翌年町有志らが慰霊碑を建立した。

以来町の主催で毎年慰霊祭が行われたが

戦後に中断、1957年に慰霊碑が再建され慰霊祭が復活するも

また中断し、

震災70年の1993年に日朝友好連帯群馬県会議によって再開され

2017年から「市民の会」との共催となり

今年も9月9日に遺族も参列して慰霊祭が行われる。

犠牲者の数は熊谷や本庄、神保原に比べて少ないが

東京からの避難、そこからの検束、

そして朝鮮人たちはいったいどこへ移送されようとしたのか

ひょっとしたらその最中に虐殺を企てようとした

国家権力にうちの何かに動きがあったのか、

それともすべてが「偶然の産物」なのか。

いまだにわからないままなのだ。

これでは震災が生む「人災」を再発を防ぐことが

出来ないままなのだ。

機械文明が発達したいまでも

「デマ」による震災時のパニックは

まったく起こらない保証がないからだ。

震災100年を迎えた今年は

市民の会など20団体が慰霊祭の実行委員会を結成し

地元出身の23歳の男性が大学の卒業制作でつくった

記録映像が上映されるなど

その記憶が風化されないように

地元を中心に関心を高めようとしている。

実行犯は37名が殺人罪と騒擾罪で起訴されたが

上級審に進むたびに罪が軽くなり

最高刑で懲役3年、それも恩赦になっている。

当時の朝鮮人差別がここまで及んでいる歴史的事実は

これからも語り伝えることが重要になってくる。

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