9月4日。自由な風合唱団の最終練習を終えてから
会場に近い吉祥寺駅前で昼食を摂り
99年前の関東大震災で虐殺事件が起きた
現場に近い「ほうせんか」の慰霊碑を訪ねるためだった。
石川逸子詩集の作品が貼りだされていた。
じっと見つめていたら
家の玄関が開いて「こんにちは」と外に出る人と
挨拶を交わした。
「どうぞ中へ、外は暑いでしょうから。」
中に恐れ入りながら入ると、別の女性の人から
お入りくださいということで。
土曜日の午後なら入れるというのを見たので
とてもありがたいことだった。
中には事件の概要や当時の新聞記事などが貼りだされていて
あの震災で荒川沿いに逃げた当時の朝鮮人やその他の人々が
デマや流言飛語などでさまざまな場所で殺されたという
証言があったというのだ。
この事件が明らかになった要因は
ほうせんかの家の近くの荒川の河川敷で
当時の警察が突然地面を掘りだして
大量の遺骨を他の場所に持ち出したという記事が
あったからだった。
「私たちが1982年に会を作った時、当時殺された人の遺骨がまだ埋まったままになっていると聞いた。ですから一度掘ってみた。掘ってみたけど結局遺骨らしいものは何も出なかった。
この時の発掘の条件が『その日に掘った場所はその日のうちに必ず埋め戻すこと』という厳しいものだったから、時間的制約のために遺骨が出なかったんだろうと思ってその後も調査を続けてきた。
そうすると、実は関東大震災のあった1923年の11月に、警察が密かに掘り起こして遺骨をどこかに持って行ってしまった、という事実がわかった。
亀戸事件というのがありました(※)。亀戸警察署の中で、日本人の運動家が10人殺されているんですけど、その人たちの遺体もここに、朝鮮人と一緒に埋められていた。
- 亀戸事件:震災の混乱に乗じて発生した、「社会主義者狩り」事件。日本共産青年同盟初代委員長の川合義虎と居合わせた労働者ら9人が震災後、亀戸署に留置され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺された(2007年9月1日付「しんぶん赤旗」より)
その亀戸事件の犠牲者の遺族たちが『肉親の骨を返せ、明日骨を掘りに行くぞ』と言ったので、前の日の夜に警察が密かに遺骨を掘り起こしてどこかに持って行ってしまった。遺族が来た当日は、一切現場に遺族を近寄らせなかったということです。
よく新聞を見ると、その2日後の11月14日、2回目の発掘が警察によって行われている。2回目もトラック3台分の遺体を発掘して運び去っています。そういうことが、後からわかった。
その後、私たちは遺骨の発掘はあきらめて、せめて現場に追悼碑を作ろうという運動をやっていきます。ただ本当の事件の現場である、この土手とか河川敷は国有地。当時の建設省に相談しましたが、国の機関である建設省としては一市民団体にそういう許可を出すわけにはいかないと。ただ墨田区みたいな地方公共団体が協力するというのであれば考える、という話だった。
で、今度は2000年に墨田区議会に陳情を出しました。一度は保留の審査になったんですけどよく2001年にその陳情が否決されてしまいました。
結局墨田区も国も追悼碑の建立には協力できないという答えになった。それで最終的には、現在追悼碑が立っている、昔は居酒屋さんだった場所、その居酒屋さんのご主人に相談したんです。そのご主人が土地を売ってくれたので、やっと追悼碑ができたのが2009年9月…」
説明してくれた女性は
玄関ですれ違った人が「ほうせんか」代表の
西崎雅夫さんでこの事件に関する
調査を続けている人だと話してくれた。
上のHP記事の抜粋のカッコ部分は
西崎さんが2016年の追悼行事の時の
インタビューによるものだった。
テレビで大きく報道されることはないが
大きな震災では常にマイノリティが脅かされる危機があることを
歴史が証明している。
そしてこれがまだ克服されていないことを
私たちはもって見つめていかなければならないと
そう感じた。
帰りに慰霊碑で合掌。
もう二度とこのような悲劇がおこらないように。