2023年の #沖縄 旅行(6月23日のつづき)



沖縄慰霊の日は朝から

平和記念公園から白梅の塔、

そして糸満を回って

「おきなわ彩発見NEXT」という

全国観光支援のクーポンを使って

「南部そば」やぜんざいを食べて

あとバスだけで「ひめゆりの塔」をちょっと寄って

約束の時間ぎりぎりに

新聞うずみ火の沖縄の集いに間に合った。

今年は沖縄タイムス編集委員の謝花直美さんの案内で

沖縄戦那覇「十・十空襲」の跡から

戦争の記憶を語り継ぐことの重要さを

学んで考えるワークショップだった。

まずBRGホテル那覇東(集合場所)から

移動した場所は奥武山公園より空港寄りにある

ガシャンビラ公園だった。


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市内を一望できるこの場所は

かって陸軍の高射砲部隊が置かれていたが

この事実が伝えられても

では当時の市民がどのように被害を受けて

避難をして疎開をしたのかが

いまでも証言の掘り起こしが出来ていないというのだ。

(通史としての語り直し)

ガジャンビラはかっては「小禄村」だったところで

戦後に合併された。

それでは戦前の那覇市の中心はどこだったのかというと

いまの松山公園の周辺だった。

国際通りや県庁・市役所のほうではなかったのだ。

ではどうしてかというと

1944年3月に南洋方面(いまのASEAN諸国)の戦いを受けて

沖縄の防衛強化と航空整備を進めるために

白梅学徒隊が後に結成された当時の県立第二高女が

一時的に兵舎に転用された。


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尋常小学校だった松山国民学校


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いまのワシントンホテルにあった那覇国民学校

いまの泊小学校もそうだったと。

それが空襲で焼失されながら

戦後はこの地に校舎が再建されなかった。

生徒たちは

「学級単位で草の上に座り、小黒板で九九を教えたり、本の朗読、

 軍歌を歌うなど、遊びのようなものだった。」

これでは突然の空襲が起きようものなら

多くの犠牲者を出してしまう。

ちなみに浜松病院院長の息子に宛てた手紙によれば

防空壕が真剣に整備されたのも1944年3月だったという。

松山公園から那覇小学校近くの公園では

塩田と塩をつくるための炉のあった碑を見る。


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実は那覇は浮島のようなもので

久茂地川から北西のほうが町の中心だったため

いまのゆいレール美栄橋駅にある

美栄橋の碑にある

尚氏王朝の時代に多くの往来が出来るように

橋が整備された。


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それが月日が経って多くの市民が空襲から

橋を渡って逃げるも

近くの泉崎橋ではあの「十・十」の第一波(朝7時から8時20分頃まで)である

空襲の被害を受けて

「橋の下に、伝馬船で避難していた

 金城病院の患者数十人が死亡。」

米軍機は240機も繰り出して

小禄・読谷・嘉手納・伊江島の飛行場を攻撃し

一気に那覇市内に空襲。

9時20分からの第二波では

さらに泉崎橋から「空襲」と叫びながらいまの

パレット久茂地の裏にあった

甲辰国民学校

年長の生徒が低学年を連れて帰宅し、

そのあとに港や当時の市街地から

負傷兵が運び込まれたのだ。


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さらに11時45分からの第三波では

那覇港第一桟橋と垣花町。

12時40分の第四波で

市街地のすべてが焼け落ち

住民はいまのやんばる(北部)などの疎開を余儀なくされたのだ。

民間被害は死亡255人、負傷358人、

家屋の全焼は1万1010戸、半壊は22戸、

残ったのは全体の約1割。

船舶は56隻が沈没、炎上は2隻。

那覇市内の児童数は「十・十」以降

6571人から2449人に激減。

国民学校は8校から5校に統合され

沖縄戦が終わったあとには

松山・甲辰の国民学校が消滅して3校になってしまった。

実はこの2つの学校の碑は平成になってやっと建立されたのも

これが原因だったのだ。


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県庁所在地である那覇の空襲の激しさは

市街地の発展までも変えてしまった。

原爆が投下された広島のように

昔の町並みが戦争によって

「消された」歴史は那覇市立博物館のホームページでも

詳しく出てこないほど生きた証言や史実が

見つからない。

このままでは風化してしまう。

謝花さんは記者としてこれに待ったをかける仕事を

いまでも続けている。

まさに観光ルートにない

沖縄戦を学んだこと。

ありがとうございました。

www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp

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