沖縄慰霊の日は朝から
平和記念公園から白梅の塔、
そして糸満を回って
「おきなわ彩発見NEXT」という
全国観光支援のクーポンを使って
「南部そば」やぜんざいを食べて
あとバスだけで「ひめゆりの塔」をちょっと寄って
約束の時間ぎりぎりに
新聞うずみ火の沖縄の集いに間に合った。
戦争の記憶を語り継ぐことの重要さを
学んで考えるワークショップだった。
まずBRGホテル那覇東(集合場所)から
移動した場所は奥武山公園より空港寄りにある
ガシャンビラ公園だった。
市内を一望できるこの場所は
かって陸軍の高射砲部隊が置かれていたが
この事実が伝えられても
では当時の市民がどのように被害を受けて
避難をして疎開をしたのかが
いまでも証言の掘り起こしが出来ていないというのだ。
(通史としての語り直し)
ガジャンビラはかっては「小禄村」だったところで
戦後に合併された。
それでは戦前の那覇市の中心はどこだったのかというと
いまの松山公園の周辺だった。
国際通りや県庁・市役所のほうではなかったのだ。
ではどうしてかというと
1944年3月に南洋方面(いまのASEAN諸国)の戦いを受けて
沖縄の防衛強化と航空整備を進めるために
白梅学徒隊が後に結成された当時の県立第二高女が
一時的に兵舎に転用された。
いまの泊小学校もそうだったと。
それが空襲で焼失されながら
戦後はこの地に校舎が再建されなかった。
生徒たちは
「学級単位で草の上に座り、小黒板で九九を教えたり、本の朗読、
軍歌を歌うなど、遊びのようなものだった。」
これでは突然の空襲が起きようものなら
多くの犠牲者を出してしまう。
ちなみに浜松病院院長の息子に宛てた手紙によれば
防空壕が真剣に整備されたのも1944年3月だったという。
松山公園から那覇小学校近くの公園では
塩田と塩をつくるための炉のあった碑を見る。
実は那覇は浮島のようなもので
久茂地川から北西のほうが町の中心だったため
美栄橋の碑にある
尚氏王朝の時代に多くの往来が出来るように
橋が整備された。
それが月日が経って多くの市民が空襲から
橋を渡って逃げるも
近くの泉崎橋ではあの「十・十」の第一波(朝7時から8時20分頃まで)である
空襲の被害を受けて
「橋の下に、伝馬船で避難していた
金城病院の患者数十人が死亡。」
米軍機は240機も繰り出して
一気に那覇市内に空襲。
9時20分からの第二波では
さらに泉崎橋から「空襲」と叫びながらいまの
パレット久茂地の裏にあった
甲辰国民学校は
年長の生徒が低学年を連れて帰宅し、
そのあとに港や当時の市街地から
負傷兵が運び込まれたのだ。
さらに11時45分からの第三波では
那覇港第一桟橋と垣花町。
12時40分の第四波で
市街地のすべてが焼け落ち
住民はいまのやんばる(北部)などの疎開を余儀なくされたのだ。
民間被害は死亡255人、負傷358人、
家屋の全焼は1万1010戸、半壊は22戸、
残ったのは全体の約1割。
船舶は56隻が沈没、炎上は2隻。
那覇市内の児童数は「十・十」以降
6571人から2449人に激減。
国民学校は8校から5校に統合され
沖縄戦が終わったあとには
松山・甲辰の国民学校が消滅して3校になってしまった。
実はこの2つの学校の碑は平成になってやっと建立されたのも
これが原因だったのだ。
県庁所在地である那覇の空襲の激しさは
市街地の発展までも変えてしまった。
原爆が投下された広島のように
昔の町並みが戦争によって
「消された」歴史は那覇市立博物館のホームページでも
詳しく出てこないほど生きた証言や史実が
見つからない。
このままでは風化してしまう。
謝花さんは記者としてこれに待ったをかける仕事を
いまでも続けている。
まさに観光ルートにない
沖縄戦を学んだこと。
ありがとうございました。