熊谷空襲の戦跡を歩く(6)

(承前・きのうのつづき)

石上寺から、星川通りを歩いている途中に

「戦災者慰霊之女神像」があった。

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1975年(昭和50年)8月16日に

長崎平和公園平和祈念像を手掛けた

人間国宝北村西望氏の作である。

その隣には碑文があった。

「慰霊碑建立について

 熊谷市は昭和20年(1945年)

 太平洋戰争終戰前夜の8月14日空襲を受け

 一夜にして當時の市の三分の二が焼土と化し

 260余名の方が悲惨な最後を遂げました。

 特に市の中心部を流れる星川には

 一齊にあがった火の手に逃げ場を失った人人が

 飛び込み焼け崩れた家の下敷きとなり

 百人近い方が焼死しました。

 けれどもあの痛ましい戰災の記憶や思い出は

 年と共にうすれ忘れられてまいります。

 よって被災三十周年を迎えるに當り

 由緒ある星川上に碑を建立して

 永く慰霊と平和を祈る灯りといたします。

 昭和五十年八月十六日 慰霊碑建立奉賛会」

像の裏には

空襲で亡くなった266名の名前が刻まれている。

熊谷は県庁所在地ではない

中小都市であるが、

これだけの祈念像があるのは貴重なことだ。

しかしそれだけこの街を襲った

空襲の悲惨さを感じさせる。

通りをさらに駅方向に歩き

親水広場(灯籠流しが8月16日に行われる)の

近くを行くと

そこに身代わり地蔵があった。

戦後に民間の実業家によって建てられたが

元は「久山寺」があった所だったが

空襲で焼失したため

このお地蔵様だけが再建された。

名前が書かれたたすきが掛けられていて

時代を超えて今の星川と熊谷の町を見つめ

空襲や戦地で亡くなった人たちの霊を

慰めていると米田主美さんからの説明があった。

 

午後1時から3時間、熊谷市の中心部を歩いて

いくつかの空襲の戦跡を見ることが出来た。

しかし私が強く印象に残ったのは

戦争が終わり平和な時代になったことで

逆に空襲で味わった苦しみと悲しみを

決して忘れずに未来へ語り継ぐ熱意を持った

たくさんの市民の熱意と望みを

見つけたことだった。

戦後75年を迎えて

空襲を経験した人が次々と亡くなる中で

「熊谷空襲を忘れない市民の会」は

若い世代にこの空襲の歴史をどうやって

知ってもらえるかと考え

高校生が体験者の声を聴く学習の機会をつくるなどの

試みを積極的に行っている。

 

戦争の「ありのまま」に自ら関心を持ち

どのように伝えていくかは

私たち自身の大きな課題に

これからもなっていく。

これを再認識したフィールドワークだった。

米田さんと清水貴子さんには

この場を借りて改めて感謝を申し上げたい。

(この項終わり)

熊谷空襲の戦跡を歩く(2) - shiraike’s blog (hatenablog.com)

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