駅から1km以内、
探せばわずかにある。
しかし誰も関心をもたなければ
過ぎ去ってそのままに。
そして風化してしまう。
きのう、新聞うずみ火の
埼玉県の読者を中心に
終戦前の1945年8月14日の深夜に起きた
熊谷空襲のフィールドワークに
行って来た。
案内をしてくれた
米田主美さんは
空襲があった日に産まれたことから
自らの使命としてこの記憶を語り継ぐ活動をしている。
そして、約3時間熊谷市街を回って
物言わぬ歴史の証人たちを見つめると
最初のころは感じることができなかった惨禍の姿が
少しずつ見えてきた。
93もの爆撃機が襲いかかり
市の中心部の3分の2が焼失、
犠牲者は266名。
宿場町の風景と人々の賑わいが
なくなり、
戦後は広い通りと碁盤状の市街地が
整備されたが、逆にその傷跡が
埋もれかけてしまった。
しかし、熊谷女子高の北門、
全焼を免れた教会、
老舗の菓子店の石灯籠、
そして石上寺の顔が焼けた
弘法大師像とケヤキの大木にまつわる話しを聞き、
最後に親水広場が整備され
慰霊の女神像がある
星川周辺へ。
平和で安寧になった街中に
突然戦争の刄(やいば)が
襲いかかった事実と
いまなお正面から向き合う
人たちの訴えを
これからじっくりと
記録しておきたい。
(熊谷のR&Bホテルにて、つづく)