熊谷空襲の戦跡を歩く(5)

(承前・きのうのつづき)

星渓園の隣にある、

星河院・石上寺(せきじょうじ)。

ここにも空襲で被害にあった跡がある。

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本堂の向かいに立つ

このケヤキの木。

縦に割れたところがあるが

これが空襲で焼けた跡なのだと

住職からの話で聞いたのだ。

さらに本堂にある弘法大師像も

空襲で顔の部分が焼けていることも。

「現在はとても痛ましいので

 御覧いただくことはできません。

 父(先代住職)は、

 絶対に直してはならない、

 代々申し送るようにと

 私にそう言ったのです。」

空襲で本堂が炎上した時に

先代は仏像を救いだしたが

大師像を救う途中で失神したが

風圧で観音開きの扉が開いた。

天井が焼け落ちたことから。

それで命が助かったが

大師像が受けた焼け跡で

「申し訳ない」と繰り返し詫びたと。

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本堂が再建されたのは終戦から60年後だが、

この写真にある千手観音菩薩の中には

空襲の業火で溶けて変形した仏具が

入っている。

「なぜ?」仏像をつくる時に

中身は空洞にしてあるから。

こうしないと温度や湿度の変化などで

仏像の表面はひび割れたりして

原型が劣化するからだ。

そこに住職はこの仏具を入れて

戦争が起こらない世界を実現させるための

祈りを続けているのだ。

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(本堂にて。左から豊宝恵実【ほほえみ】地蔵・木花咲弥姫【このはなさくやひめ】 像・江戸時代の迎火灯籠)

 

他にも庭にあった地蔵さんにも

空襲で腕の部分が黒焦げにあったのがあった。

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先代の住職は

本堂が全焼した時はどうしたらよいのか

途方にくれていたが

焼け残ったケヤキの木を見て

再建への気力をよみがえらせたのだと。

それだけ激しい大火が街中を襲った証が

この石上寺にあったのだ。

そして先代の遺訓があったから

この空襲の記憶を未来に語り伝えることが

出来るのだ。

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最後に訪ねたのは「星川通り」。

いまは整備されて親水広場がつくられて

毎年8月16日に慰霊の灯篭流しが行われているが

(今年はコロナ禍のために市民参加は中止に)

空襲の時はまだ小川だった。

 

ミステリー作家で熊谷出身の森村誠一氏は

一家5人で一旦はここに避難したが、

父親のとっさの判断で

火と水の間の壁のようなすき間を

全員で通り抜けで

市街部から脱出した。

 

「隣家との境の路地に一個の南瓜(カボチャ)が落ちていた。

 菜園からだいぶ離れているその場所に、

 なぜ南瓜が落ちているのかと

 不思議におもった私が手を伸ばすと、

 南瓜はぐちゃりと潰れて、

 中から黄色い果肉がはみ出した。

 同時になんとも言えない

 いやなにおいが吹き付けてきた。

 よく見ると、南瓜と見えたのは

 人間の焼けた頭蓋(骨)だった。

 それ以後、私は南瓜を食する都度、

 焼け跡で発見した人間の頭蓋をおもいだす。

 焼けた人間の脳味噌は、南瓜の黄色い果肉に

 よく似ていた。」

社会評論社刊・「最後の空襲熊谷」より抜粋。

 初出は「遠い昨日・近い昔」バジリコ・角川文庫)

 

東京大空襲も熊谷空襲も

激しい火から逃れるために

川へと飛び込んだが

それでも多くの命が失われてしまった。

まさに無間の地獄がそこにあり

決して簡単に逃げられなかったのだ。

熊谷での死者は266名。

県庁所在地ではない

中小都市規模では大きな被害者の数である。

(明日につづく)

石上寺。熊谷市鎌倉町にある真言宗智山派寺院、熊谷七福神の毘沙門天 (tesshow.jp)

星川:熊谷市ホームページ (kumagaya.lg.jp)

熊谷空襲の戦跡を歩く(4) - shiraike’s blog (hatenablog.com)