熊谷空襲の戦跡を歩く(2)

(承前・きのうのつづき)

12月13日、熊谷駅東口で13時に待ち合わせた

フィールドワークの参加者は7名。

そこに案内役の米田主美さんと清水貴子さん、

いずれも「熊谷空襲を忘れない市民の会」の

メンバーを先頭に出発。

駅からまっすぐ北へ直進して

国道17号線を跨線橋で渡り、

熊谷女子高校へ向かう。

f:id:shiraike:20201214154655j:plain

この構内を通過して

広いグラウンドの向こうにある

北門に戦跡がある。

f:id:shiraike:20201214154832j:plain

この門がレンガ造りの独特のスタイルがある。

実は空襲で全て焼け落ちた時に

唯一残ったのがこの門だったのだと。

(当時は熊谷高等女学校)

戦後に今の位置に移設されたそうだが、

この門の近くに大きな木がある。

プラタナス、というより

関係者はみんな「鈴懸(すずかけ)の木」と呼んでいる。

戦前、戦後、平成そして令和の時代へと

生き延びてこの学校の歴史を伝える

大きな存在になったのだ。

「空襲時には理研(現・リケン)などの軍需工場に

 動員されていた遠方の生徒が寄宿舎に泊まっており

 防空壕に避難しておりましたが、

 先生の指示・説得で防空壕を出て

 肥塚方面に逃げ助かったそうです。」

社会評論社刊「最後の空襲 熊谷」より抜粋、以下同じ)。

海軍艦政本部の航空機部門が置かれたり

戦後はここの校庭で「戦陣訓」数十万冊が

他の軍需工場で保管していたのを焼却したりと

空襲前後の史実の鍵を握るポイントがある場所だった。

もっとも日曜日ということがあって

生徒が歩いている姿はゼロ。

強い風が砂ぼこりを巻き上げていた。

その中を逃げるように次の場所へ移動。

f:id:shiraike:20201214160635j:plain

 

市役所の隣にある中央公園に。

 

f:id:shiraike:20201214160822j:plain

この写真にある大きなケヤキも空襲から

焼け残ったのを現在の場所に移植されたものだそうだ。

市役所は元は国民学校(いまの小学校)があった。

しかし空襲で焼失し、残されたケヤキが8本あった。

それがいまでも生きているのだ。

さらに、

f:id:shiraike:20201214161434j:plain

円形の広場(カナール)には

地元のライオンズクラブが寄贈した

「平和の鐘」があった。

毎年8月の6・9・15日にはこの鐘が鳴らされるそうだが

「お年寄りしか集まらないのですよ」と米田さん。

この公園には地元出身の金子兜太(とうた)さんの

句碑や、先代の市川団十郎さんが訪問したときに

国立劇場に植えられている桜(駿河小町)を移植したことなどが

有名だそうで、空襲については

戦跡を記す立て看板がないので

いまひとつ市民の関心が薄いということかもしれない。

(熊谷次郎直実の舞台でもあるし)

 

中央公園を出て南へ。

f:id:shiraike:20201214162825j:plain

この大きな道は

なんと点字ブロックは横断歩道にもあり

さらに車椅子を通過する時に

段差で衝撃を与えないようにしている。

他の自治体でもこんな風に出来ないものかと思う。

そうでなくてもコロナ禍で

ブロックから店の玄関まで

音がないために立ち往生する

障がい者もいる昨今なのだから。

(明日に続く)

金子兜太に関するトピックス:朝日新聞デジタル (asahi.com)

国立劇場の桜|花見特集2020 (jorudan.co.jp)

熊谷空襲を忘れない市民の会 (peace-kumagaya.org)