(承前・きのうのつづき)
12月13日、熊谷駅東口で13時に待ち合わせた
フィールドワークの参加者は7名。
そこに案内役の米田主美さんと清水貴子さん、
いずれも「熊谷空襲を忘れない市民の会」の
メンバーを先頭に出発。
駅からまっすぐ北へ直進して
国道17号線を跨線橋で渡り、
熊谷女子高校へ向かう。
この構内を通過して
広いグラウンドの向こうにある
北門に戦跡がある。
この門がレンガ造りの独特のスタイルがある。
実は空襲で全て焼け落ちた時に
唯一残ったのがこの門だったのだと。
(当時は熊谷高等女学校)
戦後に今の位置に移設されたそうだが、
この門の近くに大きな木がある。
プラタナス、というより
関係者はみんな「鈴懸(すずかけ)の木」と呼んでいる。
戦前、戦後、平成そして令和の時代へと
生き延びてこの学校の歴史を伝える
大きな存在になったのだ。
「空襲時には理研(現・リケン)などの軍需工場に
動員されていた遠方の生徒が寄宿舎に泊まっており
防空壕に避難しておりましたが、
先生の指示・説得で防空壕を出て
肥塚方面に逃げ助かったそうです。」
(社会評論社刊「最後の空襲 熊谷」より抜粋、以下同じ)。
海軍艦政本部の航空機部門が置かれたり
戦後はここの校庭で「戦陣訓」数十万冊が
他の軍需工場で保管していたのを焼却したりと
空襲前後の史実の鍵を握るポイントがある場所だった。
もっとも日曜日ということがあって
生徒が歩いている姿はゼロ。
強い風が砂ぼこりを巻き上げていた。
その中を逃げるように次の場所へ移動。
市役所の隣にある中央公園に。
この写真にある大きなケヤキも空襲から
焼け残ったのを現在の場所に移植されたものだそうだ。
市役所は元は国民学校(いまの小学校)があった。
しかし空襲で焼失し、残されたケヤキが8本あった。
それがいまでも生きているのだ。
さらに、
円形の広場(カナール)には
地元のライオンズクラブが寄贈した
「平和の鐘」があった。
毎年8月の6・9・15日にはこの鐘が鳴らされるそうだが
「お年寄りしか集まらないのですよ」と米田さん。
この公園には地元出身の金子兜太(とうた)さんの
句碑や、先代の市川団十郎さんが訪問したときに
有名だそうで、空襲については
戦跡を記す立て看板がないので
いまひとつ市民の関心が薄いということかもしれない。
(熊谷次郎直実の舞台でもあるし)
中央公園を出て南へ。
この大きな道は
なんと点字ブロックは横断歩道にもあり
さらに車椅子を通過する時に
段差で衝撃を与えないようにしている。
他の自治体でもこんな風に出来ないものかと思う。
そうでなくてもコロナ禍で
ブロックから店の玄関まで
音がないために立ち往生する
障がい者もいる昨今なのだから。
(明日に続く)
金子兜太に関するトピックス:朝日新聞デジタル (asahi.com)