空襲の歴史を遺すということ

きのうは「新聞うずみ火」の

埼玉読者の集いに参加した。

以前おじゃました

狭山市入曽の「デルフィーノ」で2時間半くらい

ピザやパスタなどをつまみながら

ビールやワイン(ノンアルコールも)を楽しみながら

暑気払いをした。

 

最も話題になったのは

空襲の歴史について。

それも東京大空襲のように

みんながよく知っているほうの話ではなかった。

 

埼玉県の熊谷で

終戦の直前に空襲があったことは

あまり知られていない。

地元では5年前から市の共催で

追悼行事が行われているのだが

今年は遺族会の代表が来なかったという。

その理由は体験者が高齢などで亡くなる方が多くなり

もっとも空襲被害を受けた地域で

もう3人しかいない。

認知症もあって行事に参加できる状況ではないし

家族も乗り気ではないということ。

このままでは実際の体験を

聴いて知り、学ぶという体験が出来にくい。

そこで同じ読者の方から

12月に熊谷空襲の跡をまわってみないかという

提案があった。

案内してくれる人も紹介してくれると。

これはいいことだとみんな賛成。

昨年のこの頃は

埼玉県立の平和資料館や丸木美術館、

さらに吉見百穴などをまわって

地域の戦争の歴史などを学んでいる。

住んでいる場所が違う(千葉県)とはいえ

これがさらに戦争の歴史を

主体的に考えていくきっかけをつくることに

なればと思う。

ただ歴史を知るだけでは

その記憶をいかに未来へ向けて考えるかが

難しいからだ。

 

このブログでも書いた千葉空襲は

陸軍の施設や民間の軍需工場が標的となったが

熊谷空襲は全く逆の理由だったという。

「フィナーレ空襲」と呼ばれ、

日本が無条件降伏を受け入れることを

全く情報が届かなかったことで

攻撃が継続されてしまった。

「もう少し早く降伏していれば・・・」

広島や長崎の原爆と同じように

この声が被害者たちからたくさん聞こえてきた。

しかしそれも風化されてなくなってしまうかもしれない。

それを許さないためにも

いかに関心をもって

他の人にも語り伝えていくかが

これからの課題になる。

 

他の読者の方から

甲府の空襲で被害にあった話も聞いた。

警報が出るたびに防空壕に入ったが

火をたたき棒で消しきれずに

逃げ切れなかった人もいた。

壕も盆地の低地を掘ってつくられたので

地下水が出てジメジメしていたと。

 

「B29(爆撃機)のゴゥーンとした

 あの(エンジン)音は今でも覚えてますよ。」

 

この話もとても貴重だ。

これからも耳を傾けていかなければならない。

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