2024年 #沖縄戦 を再び学ぶ旅(5)

(きのうのつづき)


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新聞うずみ火フィールドワークの最後は

牛島満第32軍・沖縄守備隊司令官のお孫さんの

牛島貞満さんが

首里城の地下につくられた同隊の

「司令部壕」のお話だった。


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以前に東京で聞いて模型を見たときは

あの公園のなかでどう通路が張り巡らされたのかが

わからなかった。

そしたら、守礼門に近いところに

坑口があることがあることがわかり、

そこから南のほうへと坑道が伸びて

最後はいまの県立芸大金城キャンパスをさらに突き抜けた

三箇川のそば(第5坑口)につづく約300mの長さになると

いまの調査時点で推測されている。


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(すべての坑道を合わせると約1kmといわれている。)


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それでは地下の深さはどうなのかというと

もっとも深いのは木挽門の近くにある

「ShaftA」と米軍が名付けた地点が

地表から33.5m。


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海抜90m以上の高さにあるが

その深さはいまの建設技術でも

かなり困難を極める作業を強いられたということでもある。

いまの那覇市立城西小学校の構内につながる

第1坑口は海抜101.3mの高台から始まり

第5坑口は72.63m。


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いわば北から南へ「ゆるやかな下り坂」の道が

つくられたようなもので

指令部などの壕は守礼門の近くの地下につくられたと

いわれている。


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説明では実際に学校の研究授業で問いかけている

アメリカ軍が首里に迫ったら

 持久戦にするか、それとも

 南部に下がって戦うか?」

牛島さん曰く

司令部壕には約1か月の兵糧があり

持久戦が出来ないことはなかった。

軍が首里を死守している間に

南部へ避難させることは可能だった。

ところが牛島満

摩文仁(いまの平和祈念公園あたり)には

新たな司令部を移すことが出来る

大きな壕があると主張して

他の司令らの意見を退けた。

これがひめゆり学徒隊などの悲劇を招いたと思うと

牛島さん。


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アメリカ軍が首里にまで迫ったのは

1945年5月21日(昭和20年)のこと。

完全に追い詰められても

戦いを止めることが牛島に出来なかったことが

「散華」の真実だ。

なにしろ摩文仁に大きな壕になりそうなガマが

あったかどうかを牛島は自分で調べなかったのだと。

大きなミスではないのか。

米軍が近づく前に壕の要所を日本軍が破壊し

さらに坑口は米軍の砲撃で破壊され

戦後はここに琉球大学が建てられ(いまは西原町に移転)

そのあとに首里城正殿が再建されて

歴史遺産がある観光名所として整備されたが

本格的な司令部壕のボーリング調査による

遺構の発掘が行われたのは去年になってから。


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2026年春には火災で全焼した正殿の再建が完工すると同時に

司令部壕の史跡などが公開される予定だと話してくれた。

その頃、沖縄は平和なままでいてくれるだろうか。

辺野古の埋め立ては進められるだろうか。

まだこれもわからないままだ。

これからも沖縄戦の歴史にもっと見つめたい。

そう思った学ぶ旅の終わりだった。


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(2枚とも西のアザナから那覇市内を望む、つづく。)

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