(きのうのつづき)
新聞うずみ火フィールドワークの最後は
牛島貞満さんが
首里城の地下につくられた同隊の
「司令部壕」のお話だった。
以前に東京で聞いて模型を見たときは
あの公園のなかでどう通路が張り巡らされたのかが
わからなかった。
そしたら、守礼門に近いところに
坑口があることがあることがわかり、
そこから南のほうへと坑道が伸びて
最後はいまの県立芸大金城キャンパスをさらに突き抜けた
三箇川のそば(第5坑口)につづく約300mの長さになると
いまの調査時点で推測されている。
(すべての坑道を合わせると約1kmといわれている。)
それでは地下の深さはどうなのかというと
もっとも深いのは木挽門の近くにある
「ShaftA」と米軍が名付けた地点が
地表から33.5m。
海抜90m以上の高さにあるが
その深さはいまの建設技術でも
かなり困難を極める作業を強いられたということでもある。
いまの那覇市立城西小学校の構内につながる
第1坑口は海抜101.3mの高台から始まり
第5坑口は72.63m。
いわば北から南へ「ゆるやかな下り坂」の道が
つくられたようなもので
指令部などの壕は守礼門の近くの地下につくられたと
いわれている。
説明では実際に学校の研究授業で問いかけている
持久戦にするか、それとも
南部に下がって戦うか?」
牛島さん曰く
司令部壕には約1か月の兵糧があり
持久戦が出来ないことはなかった。
軍が首里を死守している間に
南部へ避難させることは可能だった。
ところが牛島満は
新たな司令部を移すことが出来る
大きな壕があると主張して
他の司令らの意見を退けた。
これがひめゆり学徒隊などの悲劇を招いたと思うと
牛島さん。
1945年5月21日(昭和20年)のこと。
完全に追い詰められても
戦いを止めることが牛島に出来なかったことが
「散華」の真実だ。
なにしろ摩文仁に大きな壕になりそうなガマが
あったかどうかを牛島は自分で調べなかったのだと。
大きなミスではないのか。
米軍が近づく前に壕の要所を日本軍が破壊し
さらに坑口は米軍の砲撃で破壊され
そのあとに首里城正殿が再建されて
歴史遺産がある観光名所として整備されたが
本格的な司令部壕のボーリング調査による
遺構の発掘が行われたのは去年になってから。
2026年春には火災で全焼した正殿の再建が完工すると同時に
司令部壕の史跡などが公開される予定だと話してくれた。
その頃、沖縄は平和なままでいてくれるだろうか。
辺野古の埋め立ては進められるだろうか。
まだこれもわからないままだ。
これからも沖縄戦の歴史にもっと見つめたい。
そう思った学ぶ旅の終わりだった。
(2枚とも西のアザナから那覇市内を望む、つづく。)