(承前・きのうのつづき)
熊谷寺(ゆうこくじ)の正面から
八木橋百貨店の入り口に。
ここで案内役の米田主美さんらが
教えてくれた2つのポイント。
まず一つ目は
戦前まではこの百貨店のある地点を
旧の中山道が突っ切っていたのだ。
空襲のあとに大規模な区画整理が行われて
いまに至るわけだ。
ちなみにこの地点は
真夏になると大きな温度計が置かれて
「熱いぜ!熊谷」を象徴する場所となり
テレビ局が取材にやってくるのだと。
「私はテレビカメラに映るのはいやなんで
裏の入り口まで回って入ったのよ。」と
米田さん。
伊勢崎市(群馬)と最高気温を競う夏の熊谷だが
いまは冬。実感がわかないのは仕方がない。
ちなみに国道17号線の八木橋の方から
熊谷寺が見えるが、ここから
聖パウロ教会そして高城神社までつながる町並みが
空襲による焼失をまぬがれたそうだ。
そしてもう一つのスポットはこれ。
「武蔵の国 熊谷宿に 蠍座(さそりざ)の
淡々ひかりぬ 九月の二日」
これはあの宮沢賢治が
1916年(大正5年)9月、
盛岡高等農林学校2年時に
地質学・土壌学に関する校外学習を行う「地質旅行」に参加し、
秩父地域を恩師や級友らと巡ったその時に
旅の始まりとなった熊谷で
この歌を詠んだのだ。
(先程の歌の反対の国道17号側には、
「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ」の歌もあった。)
宮沢賢治といえば
どうしても岩手県のイメージばかりしか想像できないが
熊谷にまつわる歌もつくっていたのには驚きだ。
もっとも本人は学業の合間に
気分転換を兼ねてやっていただけかもしれないが
「銀河鉄道の夜」につながるような
独特の創造性を見たような感じだった。
そして国道を信号で渡って
南へ進んでちょっと曲がったところにある
名勝・星渓園に。
多大なる貢献をした
竹井澹如(たけいたんじょ)によってつくられた
回遊式庭園で、中の庭は
紅葉が美しかった。
さて、なぜここが空襲と関係あるのかというと
写真で撮った池にある。(上から2番目の)
「玉の池」といって荒川から切れて出来たもので
ここが市内の流れる星川の水源として
たくさんの湧き水が出ていた。
今では湧き出す量が少なくなって
地下水を汲み上げているそうだが、
熊谷の人にとって命の水の源といっても
いいだろう。
そしてこの近くのお寺で
また空襲にまつわる話を聞くことになる。
(明日につづく)
【宮沢賢治生誕120年】20歳で旅した秩父路 熊谷に降り立った「未来の詩人」 別れ惜しむ歌碑も (1/13ページ) - 産経ニュース (sankei.com)
星溪園:熊谷市ホームページ (kumagaya.lg.jp)
しかし今では