熊谷空襲の戦跡を歩く(4)

(承前・きのうのつづき)

熊谷寺(ゆうこくじ)の正面から

八木橋百貨店の入り口に。

ここで案内役の米田主美さんらが

教えてくれた2つのポイント。

まず一つ目は

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戦前まではこの百貨店のある地点を

旧の中山道が突っ切っていたのだ。

空襲のあとに大規模な区画整理が行われて

いまに至るわけだ。

ちなみにこの地点は

真夏になると大きな温度計が置かれて

「熱いぜ!熊谷」を象徴する場所となり

テレビ局が取材にやってくるのだと。

「私はテレビカメラに映るのはいやなんで

 裏の入り口まで回って入ったのよ。」と

米田さん。

伊勢崎市(群馬)と最高気温を競う夏の熊谷だが

いまは冬。実感がわかないのは仕方がない。

ちなみに国道17号線の八木橋の方から

熊谷寺が見えるが、ここから

パウロ教会そして高城神社までつながる町並みが

空襲による焼失をまぬがれたそうだ。

 

そしてもう一つのスポットはこれ。

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「武蔵の国 熊谷宿に 蠍座(さそりざ)の

 淡々ひかりぬ 九月の二日」

これはあの宮沢賢治

1916年(大正5年)9月、

盛岡高等農林学校2年時に

地質学・土壌学に関する校外学習を行う「地質旅行」に参加し、

秩父地域を恩師や級友らと巡ったその時に

旅の始まりとなった熊谷で

この歌を詠んだのだ。

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(先程の歌の反対の国道17号側には、

 「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ」の歌もあった。

 

宮沢賢治といえば

どうしても岩手県のイメージばかりしか想像できないが

熊谷にまつわる歌もつくっていたのには驚きだ。

もっとも本人は学業の合間に

気分転換を兼ねてやっていただけかもしれないが

銀河鉄道の夜」につながるような

独特の創造性を見たような感じだった。

 

そして国道を信号で渡って

南へ進んでちょっと曲がったところにある

名勝・星渓園に。

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熊谷市の産業・土木・政治などで明治維新の頃に

多大なる貢献をした

竹井澹如(たけいたんじょ)によってつくられた

回遊式庭園で、中の庭は

紅葉が美しかった。

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さて、なぜここが空襲と関係あるのかというと

写真で撮った池にある。(上から2番目の)

「玉の池」といって荒川から切れて出来たもので

ここが市内の流れる星川の水源として

たくさんの湧き水が出ていた。

今では湧き出す量が少なくなって

地下水を汲み上げているそうだが、

熊谷の人にとって命の水の源といっても

いいだろう。

 

そしてこの近くのお寺で

また空襲にまつわる話を聞くことになる。

(明日につづく)

【宮沢賢治生誕120年】20歳で旅した秩父路 熊谷に降り立った「未来の詩人」 別れ惜しむ歌碑も (1/13ページ) - 産経ニュース (sankei.com)

星溪園:熊谷市ホームページ (kumagaya.lg.jp)

しかし今では