2024年の沖縄旅について
付け足したいことがあるので
書き残したい。
①嘉数公園のトーチカの近くに
京都の塔があった。摩文仁の丘に都道府県ごとの沖縄戦の御霊が祀られた碑が
立てられているが、京都府だけが別の場所にあるとは
まったく知らなかった。
しかしこの隣に立てられているのが
「嘉数の塔」なのだ。
いったいなんで同じ位置に二つの塔があるのかについては
謝花直美さんは詳しくは言わなかったが
この事実だけは覚えていてほしいと言われた。
嘉数集落の人々が日本軍とアメリカ軍との戦いに巻き込まれて
死んだり逃げ回ったりしたことが嘉数の碑に刻まれたこと以上の
「重要な史実」ということなのかもしれない。
なお下に貼り付けた京都府のHPは
ウソであり、無理矢理に戦いに駆り出されたというのが正しい。
②牛島満第32軍司令官のことを含む
沖縄戦の史実を後世に遺した人物は
八原博通(やはら ひろみち 1902-1981)だと
謝花さんや牛島貞満さんがずいぶんと
首里城の司令壕の説明のときに話していた。
ウィキぺディアによると
「1944年3月20日に沖縄防衛を担う第32軍の高級参謀(作戦担当)となった。」
「当初は水際での積極攻勢を立案していたが、
防衛部隊の主力である第9師団の台湾移転後は
『戦略持久』方針へ変更し、アメリカ軍の襲来に備えた。」
つまり以前のブログで書いた
「首里に残って持久戦」を主張した中心人物が八原だったが
牛島に押し切られて摩文仁の壕に下がり
その後アメリカ軍に追い詰められると
八原とほかの参謀に
「日本本土に帰還して戦訓を伝えることや、
アメリカ軍後方に潜入して遊撃戦を仕掛ける任務を与え」
牛島と参謀の長通は自決したのが1945年6月23日。
八原は民間人になりすまして脱出を図るも
アメリカ軍に包囲されて捕虜になった。
同国に2度の留学体験がある八原は
偽名を使い自分の正体を明かさなかったが
結果的にバレてしまう。しかし日本語ができる高級将校があてがわれて
一軒家の農家を与えられた高級将官あつかいとして救われて
復員できたのは翌年の1月。
それから『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』(読売新聞社)を著したのは
1972年というから空白のときが長かったのだ。
しかし戦後の歴史学者やマスコミなどが
八原の手記をたくさん引用したことを2人は雑談でずいぶんと。
しかしあの沖縄戦を軍人の視点で史実として遺したのは
八原だけだったと認めている。
ちなみに2022年に公開された
映画「島守の塔」について
「沖縄の人が出てこなかった」とみんなが感想を。余計な事だが
ここにも八原博通が登場していると。
一度見なけらばならないかも。
③昨年買えなかったために大変な思いをした
「OKIKA」カードを那覇バスターミナルで買うことが出来た。
2000円分購入したいと言ったら
デポジットとして500円で
運賃チャージは1500円になると。
行先は1000円以内で済むのでこのまま購入。
760円で済み。そのあとはモノレール駅でチャージして使い
那覇空港まで300円くらい残った。
また来年へ。もっともチャージが出来る場所を
確認しておかないと。
(浦添グスクで珍しいチョウが飛んでいたので
撮影、おわり。)