2024年 #沖縄戦 を再び学ぶ旅(4)


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(きのうのつづき)

宜野湾市の嘉数公園から

ティラガマ、嘉数野戦病院壕を巡って

車は浦添市へ。

グスク(城)を目指してひたすら行く道は

とても細くて狭くて急な坂道ばかりだった。

くねくねした道筋をくぐり抜けた先になったのは

わずかな駐車スペースとその下の売店

食べ物飲み物が書いてある「のぼり」が目立っていた。

そこより下にある琉球王朝中山王陵の跡である

「ようどれ」が復元されたが、その史料館(ようどれ館)が

有料ということで、そこを飛ばして

城の跡から沖縄戦を考えてもらおうと謝花直美さんは

考えたそうだ。

駐車スペースから歩いて向かった最初の地点は

前田高地壕のあった場所だ。

浦添グスクは13世紀に築城されたが

北山・南山そして中山の三山統一前の

英祖(浦添)王統の遺跡が遺っていると言われているが

壕の上の石垣は沖縄戦で壊された跡がいまでも残る。

普天間や嘉数をアメリカ軍に奪われた

第62師団は4300人もの兵力を

民家を奪い取って宿舎にした。

そしてグスクの中を壕にして

住民たちはここで命をまもることを強いられたのだ。

グスクの東の端には

ワカリジーという縦に長い大きな岩があった。

沖縄戦のときにはアメリカ軍は

「ニードロック(針のような岩)」と言ってたそうだが

前述の英祖王と女神職のウジキンぺーとの間に生まれた

イソノシ―(伊祖の子)を祀った場所とされて

前田集落のみならず首里那覇から参拝者が訪ねていたと

案内版に書いてあった。


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レジュメには「仲間の戦争」と書いてあった。

浦添グスクのガマに避難するように避難命令が出たのは

1945年(昭和20)4月7日のことだった。

しかしグスクでも激しい戦いが起こり

シーマヌヤマヌガマではアメリカ軍の呼びかけに応じて

投降に応じる住民もいたが

自決やその巻き添えでケガした老人などが

ガマで遺体となって残された。

しかし宮城ツル子さんの証言によると

1947年に家族と遺骨を探しに来たが

なにも見つからなかった。何度もガマを探したが

遺骨は見つからないままだと。

この浦添グスクでは最近発掘調査が進み

いまの首里城よりも規模が大きいことがわかった。

これが今までの琉球王朝の歴史を大きく見直すことに

なりそうだと謝花さん。

それにしても古くから地元の歴史の跡が

戦争によって踏みつぶされてしまうことが

長年に渡って風化されてしまう恐れがあるから

そうならないための努力が進められているが

多くの人たちが強い関心を持たなけれはいけないのが

一番のジレンマだ。

その例としてこのグスクの中に

仲間慰安所(仲間区公民館)があったと言われていて

朝鮮人慰安婦が11人いたことと

週に2回ほど「石部隊」と「球部隊」が

交代でトラックで乗りつけて行列をなしていたそうだ。

しかし将来はこの歴史が遺されるのだろうか。

まだまだわからないままだ。

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