(きのうのつづき)
普天間宮から佐真下公園、そして
嘉数公園へ。この公園の名所は
地球を思わせる展望台から見る
米軍普天間飛行場(基地)の全景。
それも真正面から見えることで
何度も新聞うずみ火との旅で行った場所。
それが今年は展望台の「機能拡張」の工事のために
入れないとのことだった。
しかも本当なら1月から3月までの工事だったのが
天候悪化などの影響で9月末まで延びるとのことで
展望台はまるで石油タンクのような足場に包まれたままだった。
そこで沖縄タイムスの謝花直美さんは
まず公園に残っている「陣地壕」を案内してくれた。
沖縄戦の前の嘉数集落は820人で
日本軍の大隊1200人が「第1防衛線」のために駐屯していた。
いまの公園は第70高地と名付けて
住民を労働力としてこき使って
陣地壕やトーチカをつくっていったと説明。
壕のなかは入ることが出来ず
どこまで深く掘られていたかは
案内版を見なければわからないが
壕とトーチカは繋がっていて
高台の地下はそのまま敵からの攻撃の拠点になっていたそうだ。
いまでも残っているそのトーチカは壕の入り口の反対側になるが
壕へつながる道は残っていない。
この日は某労働組合が沖縄学習ツアーでここに来ていて
若い組合員の人達がトーチカの中を覗いたりして
「暗ーい」「おれ閉所恐怖症だからここ入れないよ」とか言ってた。
私も覗いてみたがここからずっと敵を撃つために入り続けるのは
相当苦痛になると感じた。
ちなみに展望台まえの高台を見ても
普天間基地の全体は見ることは出来る。
(オスプレイが駐機しているところにズームアップした。)
そして高台から浦添のほうを見ると
高台がいかに防衛線そのものになっているかもわかった。
しかし1945年4月6日、この風景の一帯は
艦砲射撃が激しくなり、集落の家族壕にいた人々は
区長の指示で共同壕のチジフジャーガマ(集落西)に約400人、
ティラガマ(同・南)に約100人、
マービーガマに約30人、アンガーに約100人が分かれて避難したが
7日から10日かけてアメリカ軍は集落を焼き払って嘉数を制圧。
その後に第62師団が再び奪取すると戦闘が激化し
住民たちは軍の追い立てられ南部へ避難しなければならなくなった。
いまでも残るのがティラガマで
国道330号沿いファミリーマート嘉数2丁目店の駐車場の隣にある。
中は普天間宮と同じ天然の鍾乳洞だがなかはとても狭く
奥行きも普天間とは違いとても狭く
100人もここに入ったのかが信じられないくらいだが
その道路の向かいにあるのが嘉数野戦病院跡。
実は基地をぐるりと囲むように
戦後は県道や国道が再整備されたために
このあたりの地形変化が激しく
ガマがあった丘などを崩して国道が貫通されて
当時の状況がわかりにくくなってしまった。
普天間と同じである。
嘉数の陣地を守るために戦い続けた第62師団は
4月12日の夜間攻撃の失敗で
戦力が3分の1から2分の1に低下し
戦略持久のために戦線整理と防備強化を選択し
第2防衛線を引いたということだ。
(つづく)