熊谷空襲の戦跡を歩く(3)

(承前・きのうのつづき)

大きな通りを歩いている途中で

小さな駐車場があった。

その隣の塀に説明版が。

f:id:shiraike:20201215231210j:plain

「この駐車場の奥に石灯篭があります。

 空襲で焼け残ったものです。」と案内人の米田主美さん。

どこだろうと駐車場に入ってみたら

左奥にそれがあったのだ。

f:id:shiraike:20201215231527j:plain

黒くなった部分が空襲を受けた証拠なのだ。

説明版をもう一度見てみると、

 

「(前略)

 空襲を受けた晩、当店の看板であった石灯篭は、

 土蔵が軒並み崩れる程の業火に炙られた。

 明治中期に造作された右の灯篭は、

 宝珠、笠、火袋、中台、棹、露盤の六部から

 成り立っていたが、

 これらは全て紅蓮の炎と熱風に

 倒れ散った。」

 

焼夷弾による爆撃は

人間一人では動かせない灯篭をバラバラにして

黒焦げにした挙句、その一部を壊してしまったのだ。

再建したときは、失った中台と棹を新しく造り

今のように復元させたと説明版に。

 

本当ならばもっと目立つところに

戦跡として保存されても良いこの灯篭を

よみがえらせたのは

「中家堂」という老舗の和菓子屋さんだ。

店舗に入ってみると

戦前に描かれた蔵造りの店構えが描かれた絵が

飾ってあった。

ここの名物は

「軍配せんべい」と「軍配もなか」

そして軍配の形のベビーカステラも売っていた。

(家族にお土産で買ったのはカステラ。他に

 ようかんや栗きんとんもあった。)

 

ここでもふと見逃してしまう

歴史の証人に出会えたが

なんとも置いてある場所が

「惜しい!」と言いたくなってしまう。

 

中家堂から方向を北西へ変え

千形神社でトイレ休憩をとった後

熊谷聖パウロ教会へ。

中にも入ることが出来た。

f:id:shiraike:20201215234306j:plain

f:id:shiraike:20201215234346j:plain

この建物は「有形登録文化財」に指定されるほどの

歴史があるとのことで

1919年(大正8年)にアメリカ人ウイルソンによって

建てられ、関東大震災と空襲の2つの災厄に

耐えて現在に至る。

「やっぱりレンガ造りは強いのだろうか。」

と参加者からの声。

建築様式も決して古さを感じさせないところがあった。

f:id:shiraike:20201215234959j:plain

そして裏となりの

熊谷寺(ゆうこくじ)」へ。

f:id:shiraike:20201215235047j:plain

残念ながら境内に入ることが出来なかったが

ここは空襲の時に市民の避難所・救護所として使われ

戦後は西国民学校や熊谷高等女学校の教室として

使われたという歴史がある。

広い庭に生い茂る木々が

寺の建物の焼失を防いだからだそうだ。

(熊谷次郎直実ゆかりの寺でもある。)

フィールドワークは

近くの八木橋百貨店へ進み、

ここで止まって見学。

まさか店内?いいえ違います。

実は驚きの史跡があったのです。

(明日につづく)

中家堂の歴史 | 中家堂オンラインショップ (raku-uru.jp)

熊谷空襲の戦跡を歩く(2) - shiraike’s blog (hatenablog.com)

神社に灯篭がある意味って何?灯篭について詳しく紹介します!|終活ねっと (syukatsulabo.jp)