東京都平和の日に(東京大空襲など)

3月10日、本当なら

ボランティア保険更新(松戸市で登録)のための

説明会が行われる予定だった。

しかし新型コロナウイルスの感染防止のために

予約制の更新に切り替えられた。

平日でなければ無理とのことで

前から予定していた10日に予約して

市のボランティアセンターへ午前中に行く。

受けつけるテーブルが

しっかり1メートル以上離れて設置していた。

入室時にはアルコール消毒をして

マスク着用が必須だったので

見舞いに使う手持ちのやつを使い中に入る。

(ない人には貸し出してくれる)

無事に更新を終えて

母方の家族が住んでいた台東区元浅草から

両国の横網町公園まで歩く。

裏通りを行くと

衣服や皮革の加工業の事業所を

良く見かけた。

母方のころは材木屋が多く

その後におもちゃの問屋や

機械の部品などをつくる工場が多かったという。

(おもちゃ関係は蔵前付近に今でも多い)

いまでは激しい焼夷弾から逃れるために

激しく走り回った歴史の跡は

ほとんど残っていない。

厩橋に入る手前に

テレビでも話題になった

パン屋の「ペリカン」を見かけたので

食パン(1.5斤・650円)と小ロール10個入り(680円)を買う。

近くには直営のカフェもあり

ランチタイムでもオリジナルのトーストを食べることが出来る。

f:id:shiraike:20200310193940j:plain

今年の春季慰霊大法要もコロナウイルスの感染予防のため

一般の入堂はダメになり

終わったあとの11時から参拝が出来るようにしたことを

公園に着いて初めて知った。

時間は12時過ぎだったので

入堂が可能になってお香を手向けて

慰霊を行った。

このあと、近くの復興記念館に入る。

f:id:shiraike:20200310194737j:plain

戦後75年特別企画の展示で

「戦争だからがまんしました~疎開先からの手紙に見える戦時下の子どもの暮らし~」

を行っていた。

いまの江東区からやはりいまの新潟県加茂市

集団疎開をして、

食べ物が不足したりそれ以外の生活の苦しさに

縁故疎開にしてほしいと親元に手紙を書いたけど

それもかなわず我慢を強いられて

終戦後も空襲で家がなくなったことから

帰ることが出来なくなった少年(国民学校5年生)と、

弟2人と宮城県松島に疎開して

自分は浅草区(いまの台東区)の実家に戻ったときに

3月10日、そして転居先の渋谷区で

5月25日の「山手大空襲」でその命を閉じた

少女(国民学校6年生)の手紙を

じかに見ることが出来た。

少年のほうは1945年(昭和20年)8月2日に

近くの長岡市で大きな空襲が起きており

その時にも再び縁故疎開にしてくださいとの

お願いが手紙に書かれていた。

また加茂のほうでも米軍の爆撃機B29による

伝単ビラ(戦意喪失と早期の降伏を呼び掛けるための)が

ばら撒かれていたことも

書かれていた。

少女のほうは、お姉さんが叔父さんの養女に

なったことから

涙を流すことなく家族を気遣う内容の手紙を送り続け

「でわ勝までわがんばりましょう」と最後に

締めくくっていた。

1944年(昭和19年)12月16日に届いた

手紙では当時では考えられない

かわいいイラストなども添えられていた。

そして翌年4月7日の弟たちに宛てた手紙。

「たかしちゃんしうちゃんお手紙ありがたう。

 浅草の家が焼けたのでいちじ品川の家にいて半月ぐらいいて

 こんどは(渋谷区上通り一ノ二四恩給金庫渋谷支店須山昇)でいんです。

 それで今学校を一年間中止していますからパンはおくれません。

 小包だすので四時起きで出すのよ。それだけすぐおくるはよ。

 寮長さんはだあれ?(疎開していた相沢旅館は相沢寮と呼ばれていた)

 糸ねやけちゃってないんでもうすぐりさいしゃ(罹災者)に

 はいきう(配給)になるからまっててね。

 英ちゃんは疎開しないの?みっちゃんいつつくの。

 お父さんもお母さんもお姉さんもいっしょにいるのよ?

 今日百機(爆撃機)東京にきたのよ。

 そちでちょいちょいしょういだんやばくだんをおとすのでこわいよ。

 あたいも寿町(浅草)の家でゆっくり一ばんねて九日に家がやけたのよ。

 あたしたちのにもつねぜんぶやけたのよ。

 さよなら。」(原文のママ・カッコ内は私が付け加えた。)

ここから先の手紙はもうないのだ。

この手紙は江東区台東区の中央図書館に

保存されていた(台東区は小学校の創立100年記念誌より)のを

今回のために公開されたのだが

戦争・災害・そして感染症などの災厄で犠牲にあっているのは

常に弱者である子どもたちである。

今回のコロナウイルス

肝心なところでの対処を誤ったために

子どもたちの人権を無視した

結果になってしまった。

夕方、安倍首相は緊急対策の第2弾として

休校や文化施設またスポーツ芸術などの

「自粛」を

もう10日間伸ばしてくれと言ってきた。

この人の頭には

もはや先の戦争で負った大きな犠牲のことなど

すっかり忘れているのだろうなと

思わずにはいられなかった。

f:id:shiraike:20200310204032j:plain

疎開先で家と家族を失った子どもたちの中には

 孤児となったことで親戚に預けられたり養子に出されたり、

 そのほとんどは雑用や産業の労働力としてこき使われ

 学校に満足に行くことが出来なかった。

 虐待や苛烈な家庭環境に耐えられずホームレスになった子は

 東京都によって強制的に収容所に閉じ込められたり

 途中で見知らぬ山林に捨てられることもあった。)

www.tokyo-np.co.jp

www.tokyo-np.co.jp

www.tokyo-np.co.jp

www.bakerpelican.com