石垣島と台湾のあの頃の記録を…「長輝少年の戦争」

きのうは千葉県民の日だが

こちらは仕事の日、しかし11日の休日に

京成八幡駅前の古本屋で

読みたい本を見つけた。

2000年(平成12)2月に北水から出版された

「長輝(ちょうき)少年の戦争~石垣島と台湾~」(作・鈴木喜代春 絵・古川ひろし)。

主人公の長輝は実在する人物で、国民学校の1年生(いまの小学校)の頃に

太平洋戦争が始まり、1944年(昭和19)に

一家で暮らしていた石垣島にも戦火がひろがっていくことで

町(いまの石垣市)がすすめた台湾へ疎開する。

仲の良かった高男の家族は石垣島に残ることになり

長輝は飼っていたウサギを高男に預けることにしたが、

日本は必ず勝つと言いながら

自分たちだけ台湾に疎開することを申し訳なく思っていた。

だが高男が長輝のウサギを引き取り、大切に飼い続けた。

その後に襲ってきたのがアメリカ軍による空襲。

ウサギもその時に命を奪われた。

島民たちは命令により指定された場所へ避難する。

高男たちは「白水(しらみず)」へ。

於茂登岳(おもとだけ)とぶざま岳に挟まれた

深い谷間で敵から見つかりにくいが

暗くてジメジメした環境で

マラリアを伝染させるシマダラ蚊が多く飛び交っていた。

高男は、マラリアにかかり苦しみ抜いて死に

二度と長輝に会えることはなかった。

家族も生き延びたのは母親と妹だけだった。

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疎開した長輝は2人の年上の台湾人と出会い仲良くなる。

陳文基と陳国明だった。

そのうち文基は「高砂義勇軍」に志願して南方の戦線に向かい

戦死し、国明は終戦後も生き延びたが

長輝一家が石垣島に引き揚げるときに

「一緒に日本に連れて行ってくれ」と長輝に言った。

もちろんそれはかなわぬことだった。

2人とも「高砂族」で日本の植民地時代のなかで

日本人として生き続けて、戦争が終わって

国民党政権が台湾を支配する時代になっても

「自分たちは日本人」でありたいと願っていたからだ。

島に戻った長輝は教員になって、

子ども達が平和で安心して勉強できる社会づくりのために

その一生を捧げたのだった。

 

これまで「新聞うずみ火」を通じて

石垣島の戦争マラリアについての話は知っていた。

そしてこの本で、

この事実がいかに残酷で

理不尽なものであることがよくわかった。

 

「誰が戦争をはじめるのでしょう。

 はじめた人は白水などへ行かないで、

 行くのは私たち、町の人よ。

 もう戦争はいや。」

 

戦争が起きれば軍隊は市民を護らない。

まして敗色が濃厚ならばなおさらだ。

あのウクライナでも首都キーウ(キエフ)が陥落しなかったが

生き残るには戦うか遠くへ避難するしか道がない。

日本まで避難した人も100人を超えた。

当たり前のように生きる権利を一瞬に奪い取る

戦争の現実とその歴史を知らずして

真の抑止力を語ることが出来ないはずだ。

なのに、なぜ日本人は自国の領土で起きた(たとえ沖縄といえども)

「戦争がもたらした大量死」の事実を知ろうとしないのか。

もうすぐ沖縄慰霊の日を迎える。

もっとこの本の書いてあることを、

これからの世代に語り伝えるべきであるが

ますます困難になっているのは残念だと思う。

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