ドキュメント「琉球難民」にみる台湾疎開

6月23日、沖縄の戦没者追悼式が行われる前

に知人と話を聞いた2人のおばぁのこと。

一人はやんばる(本島北部)に逃げ、

もう一人は台湾へ疎開した。

この疎開が初めて聞いたこととして

ずっと気にかけていたが

詳しく調べる機会や手段がないまま

時間だけが過ぎたが、

17日の土曜日にBS-TBSで放送した

ドキュメントJ「琉球難民~証言と記録でたどる台湾疎開~」

を見て、沖縄戦が激化する中で

地域ぐるみによる台湾への疎開がおこなわれ

その時の証言の記録が

中城村に残っていたことがわかったのだった。

「(これまでの研究が)沖縄本島の地上戦の歴史に

 偏向してしまっていて、

 台湾引き揚げ者の体験を聞こうとする姿勢がなかった。」

「私なんかの体験よりは・・・と

 (引き揚げ者は)口をつぐんできてしまった。」

中城村で研究をしている中村春菜さん)

疎開は危険を極める状況で、

1944年7月に当時の日本政府が

沖縄での持久戦を決めたことで

住民10万人の県外疎開閣議決定する。

台湾には宮古島八重山諸島に住んでいた人が

疎開、それも

日本兵たちの食糧を確保するために足手まといの

 老婦女子たちを疎開させた。」(中村さん)

13歳の時に疎開した下地啓義さん(今年6月に逝去)の証言。

「船はほとんど撃沈されていたから、

 民間の木造船、カツオ船

 大砲は木でつくる」

夜陰に紛れて基隆港に船を着岸させたという。

しかし、

「台湾沖航空戦が始まった。

 (そのころは)戦争をはじめて見るから

 ”楽しいもんだな”と

 ガジュマルに乗って高みの見物をしていた。」

当時医師だった呉新栄氏(故人)の日記によると

台南市疎開した沖縄住民は200余名で

到着したのは前述の9月6日で、

航空戦を目撃したのは10月12日。

空襲が続き、疎開した人々の疲れ切った顔つきをみたことで

戦争の切実さを感じたと。

疎開者たちは、台南から高雄、さらに台中へ

逃げることを余儀なくなれた。

しかし空襲による高射砲の破片が落下して

ガジュマルをなぎ倒したり人に当たったりする恐怖を見て

「はじめて戦争のおそろしさを知った」(下地さん)。

配給も途絶え、道に落ちていたタケノコなどを食べて

なんとか生き延びても

マラリアを発病して亡くなる人も出てくるなど

悲惨な状況を極め、そして終戦

しかし引き揚げ船に航行制限が出たことで、

「ヤミ船」に頼る人たちもいた。

「(古い廃船を修理した「栄丸」で)家族7人で引き揚げたが

 とにかく隣の人とくっついている。全然荷物を置く場所がない。」

浦添市に住む淵崎久人さんの証言)

しかし定員超過の船は、出発直後に北の岸壁に流されて転覆。

淵崎さんは生き延びたが家族全員が亡くなった。

引き揚げはその後も沖縄本島が戦後の混乱の中で

十分に受け入れが整えられなかったから

かなりの時間が費やされ、

米軍の統治下だったこともあり

すべてが民間の力によって行われていたという話も。

まさに困難ばかりの歴史があったのだ。

来年もし沖縄にいけたら

もう一度あのおばぁに会いたいと思うのだが

その願いをかなえるのは難しいだろう。

でも中城村には行ってみたいと思った。

www.vill.nakagusuku.okinawa.jp

 

www.okinawatimes.co.jp

www.nishinippon.co.jp