続・満州からの引き上げの記憶を遺すために

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(きのうのつづき)「大陸に新天地を求める 父の生きた記録」

吉永重夫さんの手記をまとめたこの本は

 内容はとても濃厚で

自らの生い立ちから

戦後の引き上げ経験以降の人生を

すべて緻密かつ詳細に綴られていて

ほんとうに圧倒させられた。

(表紙デザインは1934年の最新満州写真帳の復刻版

 「懐しの風景・復刻満州絵葉書寫眞帖」より。

 1986年3月1日初版で池宮商会出版部の発行。)

 

北九州の芦屋町に生まれ

師範学校を卒業して小学校教師になり

上京して司法試験を受けるも合格できず

家族を養うために

満州(現。中国東北部)へ新天地を求めた。

昭和初期から終戦まで

多くの日本人が新たなる希望を求めて

そして貧困を脱するために

中国大陸へと渡った人々は多かったが

もうそこでは戦争の闇に覆いつくされていたのだ。

吉永氏は自ら学んだ知識を活かして

炭鉱会社の統制経済に関わる仕事をしてきたが、

満州のさまざまな場所を転々とし続け

あの1945年8月15日にたどり着いたのは

朝鮮半島の国境に近い通化という街。

地元の石炭会社の支配人になったからだ。

 

「大通りに出た私は、

 一瞬足を立ち止めて心の動揺を感じた。

 街上には紙の旗が軒から軒へ左右に交錯し、

 軒先には中華民国の青天白日旗(現・台湾)が

 軒並みに翻っていた。

 彼等はこの日が来ることを予期していて、

 準備がなされていたそうだ。」

 

吉永氏は到着後に関係省庁に挨拶に行った時、

ここは要塞の地で関東軍が多数集結しているから

安心だと聞かされたが、

それは夢物語だとその時に感じたという。

後は不安と動揺しかない。

 

しかし石炭会社が解散されてしまうことを覚悟し

社員の給与や退職金の支払いから

日本軍への石炭の売掛金の支払い請求などの作業を急いだが

現金の支払いは出来ないと知らされ

被服や工作用具の現物支出なら出来るといわれ

既に国民党軍の支配にある駅に入り込んで

貨車からそれらを運び込む危険な作業を行った。

 

通化市民のため、貯炭場の補修は急務である。

 日本軍の了解の下に、貯炭場に必要な工作用具、

 補修用の資材、石炭運搬に役立つ資材などを運ぶもので、

 私利私欲のためにしているのではない。」

 

現地人の駅員が止めたときに

言ったこの言葉に嘘はなかった。

吉永氏は大陸に渡ってからずっと地元住民のために

燃料のための石炭を確保するための仕事を続けてきたからだ。

しかしその後に駅や倉庫は

略奪によってすべての品物がなくなり

身の危険が押し寄せてくる危機を感じたが

貯炭場の補修を全て果たし終えて

地元人社員からも「貯炭場を守った男」として

称えられたことが心の慰めになったと。

しかしソ連軍(現・ロシア連邦)が

10月に進駐して

吉永さんら現地の日本人も引き揚げが出来ないまま

足止めを喰らい仕事がないまま貯金を切り崩して

抑留生活を余儀なくされた。

 

そして翌年2月3日、通化事件に遭遇する。

旧正月に街に出た時に知人に呼び止められ、

1日に一発の銃声を合図に

すべての日本人が総決起して中共中国共産党)軍や

その他の軍事施設を襲撃して

国民党軍の通化導入作戦に協力することになっていると

熱をこめて話してくれたと。

噂として聞き流したかったが

そういう訳にもいかず

前日から夕食を早く済ませて

いつでも外に逃げられるように厚着をして

所持金を家族全員に分けて持たせて

警戒に当たった。

そして夜8時過ぎに拳銃の弾が家に打ち込まれ

隣の家の人が早く表に出るように大声で叫んだを機に

表に出たが近くにいた中共軍の兵に逮捕される。

しかしその後の監禁も一週間で済んで釈放。

家の物は一度は略奪を余儀されるも、

隣人の元警察官の許さんが周囲を説得して

一部を返還させ、さらにお米や食料などを

寄付させてその後の生活を支援してくれた。

その許さんが1200名の日本人の死者と

国民党の中国人が20数名も殺された事件の内容を、

戒厳令司令官だった林彪(のち中国共産党幹部に)の

「日本人に告ぐ」の布告がばら撒かれたと

話してくれたと綴られていた。

 

そして中共軍もこの騒動に懲りて

日本人の監視を強めるための

「良民証」を従来のものを取り換え、

身元を再調査して再発行して渡したが、

その時に吉永さんはわざと申請書の提出を極力伸ばして

期限ぎりぎりに再発行を受けた。

その時通化に在住していた日本人の数を調べるためだが

その番号は4800番台。

終戦の年の暮れに初めて交付されたが、吉永さんは

最初のが紛失して翌年に再交付してもらった時は

6000番台、それがまた交換になったから

これらの数字で引き算をすると約1200。

林彪の言ったことに間違いはないと確認できたのだ。

 

引き揚げが始まったのは終戦から1年経った8月22日、

途中国民党と共産党の内戦による前線地帯があったため

列車がなくなり50キロもの山道を歩き続けることも余儀なくされ

コレラで命を奪われた人も出た。

内陸部の梅河口から再び列車に乗り

最初の赴任地だった四平、奉天瀋陽)から

営口近くから船で日本に帰還。

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その後は自転車工場、税務署勤務から

税理士などの人生を送った吉永氏は

1984年8月に83歳の生涯を閉じた。

 

その人生は自ら求めたといえ、

数限りない苦難の山脈(やまなみ)が存在していたと述懐している。

しかしその手記の大半を満州時代の記憶が占められていたのは

いかに戦争が多くの人々の人生と運命を

混乱させたことを物語ることがわかる。

吉永氏もまたその一人だった。

しかし、その時代に生きたことを決して憎まず恨まず

苦難の時を、いかに人として生きるかを

ひたすら考えて歩んできたか。

それが平和への願いと祈りへつながっているか。

改めて激動の昭和の歴史が

私たちにこれからの未来を考える大きな課題を残したかについて

考えなければいけない。

 

古宮保子氏に心から感謝を申し上げたい。

(この項つづく)

 

旧満州の記録つなぐ 一家で通化事件に遭遇 松戸の古宮さん、父の遺稿を出版:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

芦屋町 (ashiya.lg.jp)