戦後サハリンに置き去りにされた日本人女性の歴史

きのうにつづいて戦後関係の書き込みを。

3月に石井麻木さんの写真展を見に高円寺に行った。

その帰りに2冊の古本を買った。

そのうちの一冊が下の写真。

今まで知らなかった戦後史を見た。

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評論家の吉武輝子氏の

「置き去り サハリン残留日本女性たちの六十年」(海竜社)。

あの大戦の後、南樺太と言われたいまのロシア・サハリンからの

引き上げが出来なかった日本人女性が

多くの関係者の尽力によって一時または永住帰国を果たしたこと。

そしてそれ以上に多くの日本人女性が

故郷の土を踏めぬまま、領土から異国になった

サハリンで生涯を閉じた事実がこの本に書かれている。

満州(いまの中国東北部)で親と生き別れて

ずっと日本に帰れなかった残留孤児のことは

ニュースでたくさん伝えられたが

サハリンのことはあまり知られていないはずだ。

実は日本政府は戦争が終ってから長年に渡って

サハリンに残留した日本人女性は存在しないという

見解を出し続けていたのである。

このことも詳しく書かれていた。

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この本は2005年の初版で、

帰国を果たした女性たちは当時70代後半から80歳以上。

終戦(敗戦)当時はまだ少女時代だった。

引き揚げが開始されたのは1年後の冬のこと。

それまでに親と生き別れになったり

一家の稼ぎ手を失ったことで

不安定な生活環境のために

徴用された朝鮮人との結婚やそのために

日本国籍から離脱したとみなされた女性たちは

結果的にロシア・朝鮮(韓国)・日本の3つの名前を

持たざるを得ないほどの状況の中で

サハリンで世帯を持って生きていくしか選択がなかった。

月日が流れ女性たちは子供が一人前になり

老境に差し掛かる中で故郷への思いが募る。

この思いを受けた日本の関係者が

あらゆるルートをつくる動きを重ねて

一時帰国による故郷への墓参が実現したのは

1990年、実に戦後45年たってのことだった。

中国残留孤児の帰国受け入れが開始されたのは

1980年代のことだから実に10年遅れで

さらに希望する者に永住帰国を受け入れたのは

1992年になってから。

長い月日がかかった。

日本とロシア(元・ソ連)の外交関係が複雑だったからというのもあるが

まさに戦争が残した傷あとは

大きいが、それは本当に受けたものでなければ

その痛みを感じることが出来ないくらい

その記憶が風化されようとしている。

 

いまでは「日本サハリン同胞交流協会」から引き継いだ

NPO法人日本サハリン協会が

一時帰国者、永住帰国者の送迎・帯同及び身元引き受け
一時帰国の事務手続き
永住帰国者の生活支援
サハリン及び旧ソ連地区の現地調査

 

の事業を行い、

共同墓所(慰霊碑)も札幌につくられた。

あとはこの歴史をいかに語り伝えていくかが

課題になるのだが、

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11日の東京新聞朝刊2面より。

樺太残留邦人に言葉の壁 日本語「読めない」4割:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

北海道は当時の残留邦人で永住帰国した人に対して

支援のニーズを明らかにする目的で

生活の実態を把握するための実態調査を2月に実施した。

すると、

「日本語が全く読めない」36%(漢字が交じると読めないが43%)

「日本語が全く書けない」57%

「1人で入院手続きができない」57%

「医師と病状とのやりとりができない」48%(できるは52%)

 

時代の証言者たちは高齢化が進み、

その2世(1945年9月3日以降に生まれた人)もまた同じで

帰国しても日本語に不自由しているとなれば

生活面の苦労が絶えず、

原爆や空襲、沖縄戦のように歴史を語り伝えるどころでは

ない状況に立たされている。

 

この重要な事実にいかに関心を持ってもらうかは

大きな課題だが、

為政者たちはちゃんと気が付いているだろうか。

サハリンから初めて「故郷に」 耳不自由な75歳「私は日本人」:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

NPO法人 日本サハリン協会 | Japan‐Sakhalin Association (sakhalin-kyoukai.com)

ふるさとは樺太~サハリン残留日本人の今 | ゆう・えんブログ (yuen-net.com)