あぶなかった。
「週刊金曜日」で放送日と時間を知っていたはずなのに、
前日にど忘れして録画予約を忘れた。
それでも深夜3時半前に目が覚めて
慌てて思いだしてテレビをつけた。
それが7月22日の出来事だった。
FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
「テレビで会えない芸人」(鹿児島テレビ制作・フジテレビ放送)。
見ることが出来たのは後半の約30分だったが
すわ伸治さん(66歳)と会って
久しぶりに一杯交わすのを見たのには驚いた。
すわさんと言えば
コントを繰り広げたことを思い出すが
「ザ・ニュースペーパー」でも一緒にやっていたことは
知らなかったのだ。
そして同じ時期に脱退して
それぞれの道を歩んだことも初めて知った。
昨年2月14日、故郷鹿児島で1年ぶりに公演。
その前に母校の恩師で
高校(鹿児島実)の陸上部監督だった
山下義彦さん(94歳)と50年ぶりに再会する。
(ヒロさんがおととし、山下さんに贈ったサイン色紙)
「けんかして(進学した法政大の)陸上部をやめて、
とても先生に合わせる顔がなかった」
でも、奥様が
「笑パーティー(ザ・ニュースペーパーの前にコンビでやっていた)の
頃から応援していたのよ」と。
筆談で笑顔を交えて話ができたのは
ヒロさんにとっても喜びになったようだ。
ちなみにこの件は
1月のさいたま市(大宮)のライブで
しっかりと聞かせてもらった。
さらに
立川談志家元の出会い、
そして芸人をして認めてもらったことと、
そして永六輔さんからも
頼まれた「憲法くん」。
絵本にもなり、
名だたる大女優たちが朗読劇で読んだ
名作のことも。
あの「令和」のときは
森友・加計疑惑を元号が変わったことで
リセットさせようとしているが
「それに水を差してやる」。
ヒロさんが芸人として
大きな転機を迎えたのは
「平成」になる前の
自粛ムードだった。
昭和天皇の「御容態」が
毎日テレビやラジオなどで伝えられて
あらゆる祭りやイベントが
中止に追い込まれてしまった。
私はいまでもその時の異様な空気を覚えている。
今回のコロナ禍と同じような感じだった。
「笑パーティー」の一人だった
ヒロさんはあっという間に
仕事がなくなってしまった。
だから「こんな社会を笑い飛ばしてしまおう」と
同じ芸人仲間と結成したのが
「ザ・ニュースペーパー」。
そして
「集団でやっているよりも
一人でやってる方がギャラの配分が違う」
といまのソロ活動へ。
しかし、それはあくまでもテレ隠し。
自分なりのやりたいこと、
それ以上にやらなければいけないこと。
それを貫くことを
テレビの「コンプライアンス」に捻じ曲げられてたまるものか。
かって「反骨」という言葉があった。
すっかり死語になったが
まさにヒロさんはこれを地でいく芸人道を
しなやかに楽しませて歩んでいるのかもしれない。
また来年でもいいから
生の舞台をみたいなぁ。
「陸上やって大学行って
うまくいかなくなってやめて、
それじゃ体育の先生になろうかと
思ったけど
やっぱりうまくいかなくって、
いろいろやって芸人になった。
これまでのことは
いまに至る積み重ねになったんだよね。
だからすべてのことに
感謝している。」
(番組より、ヒロさんの言葉)