ゴジラと日本国憲法の関係の変遷について(5)

(承前)伊藤宏氏の、

ゴジラが伝える日本国憲法の意義~平和・反核・民主主義~」

を読んで、この映画の中に日本国憲法の意義と

戦後民主主義の在り方が物語の中にたくさん込められている。

その半面で最新作(海外版を除く)のシン・ゴジラ

憲法改正核兵器保有の是非が問われる内容に

なっていることもわかった。

私自身はゴジラシリーズをじっくり見たことがなく、

どうしても怪獣ものとなると

ウルトラマンミラーマンなどの作品ばかりしか

見ていなかった。

それでも実相寺昭雄監督が手掛けた回

ウルトラセブンだったと思う)では、

ただ怪獣や宇宙人と敵対するのではなく

当時の事件や騒動からヒントを得て

正義の味方も悩みぬくといったシーンもあった

ことも思い出す。

時代劇のように勧善懲悪ではなく

なぜ互いに戦わなければいけないのか、

ひょっとしたら戦う以外の方法もあったのではないのか

といった話もよく出てきて、それがなんとなく

記憶に残ったりしている。(雑誌の特集でもよく見た。)

実は論文の最初で

「リアルな大人向け恐怖映画として

出発したゴジラが、子供だましの怪獣プロレスへと

凋落してゆく過程」(佐藤健志「さらば愛しきゴジラよ」読売新聞社刊より)

から逃れられず、第1回への回帰が試みられたが

それが果たせぬまま、何度も銀幕から姿を消したことがあった。

しかし私たちが印象に残るゴジラは、

どうしても人類の敵か怪獣プロレスのチャンピオンと連想してしまうのだ。

伊藤氏の論文がなかったら

ゴジラは文明社会に生きる私たちの化身そのものであり、

それが核兵器は戦争、あるいはテロ攻撃に結び付いていることに

気付かなかったと思う。

「巨大不明生物」は私たちなのであり、

人間と同じ存在だとすれば、

もう少し平和とは何か、というよりは

平和を創るものとは何かを考えることが出来るのではないか

とふと思う。

それは軍事力だけでは解決することができないこと。

いわば、

対立を産み出す原因とは何かを追究していくことではないだろうか。

ゴジラは水爆実験の影響で生まれたことを

忘れないようにすること。

そこから考えてみることから始めなければいけないと

改めてそう感じる。(この項終わり)

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