ゴジラと日本国憲法の関係の変遷について(3)

(承前)「ゴジラが伝える日本国憲法の意義~平和・反核・平和主義~」

で伊藤宏氏は、第1作(1954年)の中に

日本国憲法によってもたらされた言論の自由

そして男女平等などによる新しい社会と息吹と

期待を伺わせる描写が出てきていることに

注目している。

例えば、山根博士がゴジラについて報告した国会の

委員会で、博士が水爆実験とゴジラとの関連を語ったあと

男性議員と女性議員が激しく議論の応酬を続け、

女性議員が「バカ者!何を言うとるか!」

それを受けた男性議員が

「バカとは何だ!謝罪しろっ!」と叫び

それに女性議員が

「(山根博士の報告について)事実は堂々と発表しろっ!」

と言い返す場面。

これは1953年に衆議院予算委員会

吉田茂首相が社会党西村栄一議員との

質疑応答の中で首相の「バカヤロー」発言で

衆議院解散に追い込まれた事実を使った

パロディーだと、

「戦前ではあり得ないことだろう」と伊藤氏は

戦後民主主義がもたらした社会の変化を

ゴジラという映画がしっかりと残していること

を教えてくれた。

また、新聞社のシーンでは山根博士が

ゴジラについてまずあの不思議な生命力を研究することこそ

第一の急務ですと述べたことに対して

「山根博士の意見には重大な点が含まれている(中略)大いに研究すべきだ」

「しかしね、現実の(ゴジラによる)災害はどうするんだ」

「そこなんだよ、難しいところは」と

記者同士で異なった議論を交わすところは、

議会制民主主義における

ジャーナリズムの役割の重要な所としての

言論の自由」の必要性を想起させたものであると。

(いまでは当たり前だと言われそうだが、安倍内閣の影響で

このような自由が狭められていることに気づかない国民が多いと思う。)

また第4作「モスラ対ゴジラ」(1964年)では

毎朝新聞社のシーンで酒井記者が

怪獣の駆除について書くのをやめたい、

自分たちは裁く力も命令権もないと言ったことに対して

丸太デスクが

「何年新聞記者やってるんだ。新聞がそんな力をもって

 権力者に成り上がったら、どうなるんだ。

 新聞は大衆の味方だ。」と教え諭すところがあったと。

いまの新聞記者たちに聞かせたくなる名言だなと

私もそう思った。

また酒井記者がモスラの支援に望みを託し、

インファント島に出向き、住民に理解を求めるシーンでは

協力を拒否され「我々、この島の人間以外信じない」と

族長が突き放すも(ここでザ・ピーナッツモスラの唄を思い出す)、

酒井は人間不信のない世の中が理想だが、

人間が多ければどうしても難しい問題が多い。

しかし、我々はあきらめない、この理想を実現するために

努力するから長い目で見てくださいと訴えるところがある。

これについて憲法改正の時に首相を務めた幣原喜重郎が、

9条に関して非武装宣言が狂気の沙汰なのか、それとも

武装宣言が狂気の沙汰なのか、考えに考えた末に出た

結果がもう出ているとしてこれがあるのだと。

世界は一人の狂人を必要としている、

世界史を開く狂人として、その世界的使命を日本が果たすのだと。

この言葉と相通じるところがあると。

日本国憲法アメリカによる押し付けだという意見がある中で、

軍隊のない国を創るために憲法を改正すると、

当時の政府の当事者が9条の意義を語ったことが

ゴジラの物語に強い影響を与えているというわけだ。

確かにゴジラは常に人間と戦う存在だ。

しかし決して必要悪ではない。

私たちの抱える不安と不信の塊が具現化されたところに

あの大怪獣があるとしたら、

戦う前に悩むのは当たり前なのかもしれない。

大きな被害はあの大戦と同じ、

対決する兵器も核兵器以上でなければダメ。

いわばこの怒りの象徴を生み出さないために

何が大切なのかを努力して探さなけらばならない。

しかし「シン・ゴジラ」はそれを覆した内容に

なっているというのだ。(つづく)

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