(きのうからのつづき)
合流した私は沖縄タイムスの記者である謝花直美さんの案内で
奥宮といわれる洞穴を見学した。
受付を済まして巫女さんの案内でオートロックの入り口から
ブロックづくりの通路を抜けて中に入ると
とても奥行きのある鍾乳洞でその真ん中に神殿があった。
その向かいには男性器の形の道祖神もあった。
じつは沖縄国際大学が考古学調査を行っており
沖縄では最古といわれる
32000~18000年前のものとみられる炉(火を使った跡)が
発見されたそうだ。他にキョンや鹿の化石なども見つかっていて
これからも調査を進めるとのことだが
沖縄戦では1944年の10・10空襲のときに
当時の泉守紀知事が那覇からここまで避難した記録があるが
当時普天間にあった中頭地方事務所も空襲を受けたことから
この鍾乳洞を県庁の仮事務所として寝泊りしながら執務をしたことで
「知事は職場を放棄している」
「臆病な知事は怖くて壕の中に隠れたまま出てこない」と言われたそうだ。
(野里洋「汚名 第二十六代沖縄縣知事泉守紀」1993年講談社刊・レジュメより)
いまでは自然が生んだ美しさが光る洞穴も
かっては壕として使われたことは聴かなければわからない話だ。
しかもかっては普天間宮の前の参道には松の並木が並んでいたが
空襲と戦後は虫の害などで消滅した。
宮の前には大きな道路があり、その裏には米軍基地が近い。
洞穴があったから宮が守られたといってもいいのかもしれない。
しかし戦前の門前町の面影は想像がつかない状態になった。
この普天間から中城までを当時の日本軍が第1防衛線としていて
キャンプフォスター(普天間)の第2ゲートの前にある
佐真下公園はかって集落があった場所だった。
しかし軍は高射砲陣地にするからと住民に家を壊せと命令し
地上戦が始まる前には民家が全て焼き払われたという。
この集落は屋取(やーどぅい)といわれていて
人里離れた地に小屋掛けして荒蕪地を開墾し農業をした場所で、
屋取は他の地に宿るという意味だそうだ。
1955年に土地の解放はあったが
ここを追われて真栄原や嘉数に移った人が多いそうだ。
公園には展望台があったがここでは上らずに
嘉数公園にみんなで移動した。
そこで衝撃的な話を聞いた。
「あの高台の展望台は改修工事のため行けません」
一体どうする!(つづく)