いま練習が続いている
東葛市民合唱団はるかぜの
「ぞうれっしゃがやってきた」の練習会ニュースで
1949年(昭和24年)の
台東区子ども議会のおねがいのあらましがあった。
2月10日の第4回練習で配られた。
これは「本物のぞうが見たい」の歌のなかで
出てくるシーンで、実際に子どもたちが
唄とセリフで演じて
最後は生きている名古屋のぞうが見たいという思いを
東京から届けようというところで結んでいる。
「子どもたち同志は深い愛をもってはげましあい、
たすけあいながら、いろいろなことを学ばなければなりません。
その一つの機関として幸い動物園があります
(中略)
私たちのために、ぜひあのはなの長いぞうを、名古屋の動物園から
かりてきて、みせてください。
私たちは絵本ではみたことがありますが、
本物のぞうを見たことがないのです。
第二回台東区子ども議会の緊急なお願いとしてとりあげられ、
決議されたこのお願いを、どうかおききとどけてください。」
webで検索すると、台東区史には
「戦後の新しい民主主義教育の一つに『子供議会』という学習活動があった。
これは子供達の手で身近な問題を解決していこうとする
自治会活動のようなもので、
国会や地方議会を模倣して討論会や決議をして、社会に訴えたのであった。」
とあり、小学校五、六年生から各校一名の代表で構成され、
1948~50年まで行われていたのだと。
第二回で上野動物園に名古屋のぞうを呼ぶことを決議して
子ども議会の議長と副議長が名古屋の子ども議会に
ぞうを貸してほしいと提案したが
「同情はするが、東京の友達だけに貸すわけにはいかない。
だからといって、名古屋だけで独占するのもよくない。」と意見がまとまらず
東山動物園の園長にもお願いしたが
エルドとマカニ―の二頭自体が高齢な上、
輸送が難しいこと、一頭だけでもというが、
長い間二頭で生活していたのを引き離すことは不可能なことだと
2人に言った上で
1頭だけ別に連れ出してみるという実験をしたら
「檻の中に残された一頭が暴れだし、鉄柵に頭突きで血みどろになる騒ぎであった。」
その後に当時の名古屋市長にも面会しても同じやりとりになり
「(副議長の)厚田尚子さんが市長の前で
『このままでは東京へ帰れない』
と泣き出す一幕もあり、
市長もこれには『眼鏡をはずしてしばし沈思黙考』」。
その後にぞうれっしゃを走らせることが決まったのだと。
いまでもほかの自治体で子ども議会が行われているが
ここまで大人たちを動かすことは今ではないだろう。
そして、ぞうれっしゃから
インドから「インディラ」という新しいぞうが
上野動物園に迎えられるということになる。