学生時代の頃、深夜に
ラジカセのダイヤルを回したら
ガーガーと雑音のなかに
わからない外国語まじりの放送らしきものが入って
「邪魔だなあ」と思ったことが何度もあった。
あの時に購読していた
「ラジオパラダイス」という雑誌(いまはない)でも
そのラジオ(または妨害電波?)のことで読者間で物議をかもしていた。
それが当時のソ連から発信していた
モスクワ放送だった。
新聞うずみ火の東京忘年会で年に一回お会いする
毎日新聞社会部記者の青島顕(あおしま けん)さんが
このモスクワ放送にまつわる歴史と
その日本語放送に携わった人たちの逸話を綴った
「MOCT(『ソ連』を伝えたモスクワ放送に日本人)」が
第21回開高健ノンフィクション賞を受賞し
集英社から書籍化されたのを知り
買って読んだが、歴史本によくある
重々しさがなくそれどころか
面白いエピソードがいっぱいだった。
昨年開催された日本語放送開始80周年のイベントから始まり
「日本課」の名物課長(リップマン・レービンさん)のもとで
つまらない放送(政府によるプロパガンダ)からの
脱却(挑戦)をやってのけた
2人の日本人アナウンサーである西野肇さんと
日向寺康雄さんの歩みから始まったが、
本の題名「MOCT」とは
ロシア語で「架け橋」という言葉。
戦前から戦後にかけて政治体制が違う国同士が
同じ言語による放送での結びつきで築いたものは
決して互いの国家の優位性を競い合う、
いわゆる「冷戦」ではなく
同じ人間としての相互理解を深めていく方向へと
持ってきた。
レービン・西野・日向寺の三氏はまさにその担い手となったが、
「ソ連崩壊」によってモスクワ放送は
「ロシアの声(さらにラジオ・スプートニク)」に代わり
そしてインターネットの大きな波によって
ラジオによる放送も終わった。その後は
日本語による「ロシアからの声」は
ソ連時代より大きな関心をもつことがなくなり
さらにウクライナ侵攻によって
日本中がロシアに対してタブーだらけになった。
西野・日向寺両氏は
ともにやり切れないものがあると
エピローグに、それはなぜか。
あの頃の「制約だらけの」ソ連の中で
ビートルズなどの西側のヒット曲を流したり
市民たちの生の声を精力的に伝えてきたという
仕事が出来たから。
しかも岡田嘉子さんなどの先輩たちが
その土台をつくり、それを前述の日本課長が
ソ連政府当局と対立しない
ほどほどの距離を守り抜いたことからだったのだ。
また、シンガーソングライターの
川村カオリさん(2009年没)が
「オールナイトニッポン」(1991年・日曜日の2部)で
モスクワ放送から生中継をやったことも
書いてあったのが嬉しかった。
そのときに共演したのが日向寺氏だった。
(西野氏は既に帰国して放送関係の仕事をしていた。)
上柳昌彦「あさぼらけ」でゲスト出演(11~15日)した
春風亭一之輔さんも当時の放送を聴いていて
思い出に残っていることを聴いたが、
本のことを思い出して、
私もあの時の自分を振り返ることが出来たような気がした。
何も知らない世界に
自分なりに「知ってやろう」と好奇心旺盛でいられた
あの時代を。
いまはwebやSNSで「知ったかぶり」になれる時代。
だからラジオが一番「体温」が伝わりやすいメディアとして
大事にしていきたいが、
ロシアから自由な声が再び聴くことが出来るのは
いつになるだろうか。