18日、阪神淡路大震災の日。
早朝の追悼行事をNHKで見た。
深夜はドキュメント番組を2つ見た。
(このことについてはまたの機会に)
そしてきのうの東京新聞社会面。
その記事の中で「あっ!」。
ある人の名前を思い出したのだ。
神戸市遺族の代表、加賀翠さん(65歳)。
追悼行事で上の写真にある「ことば」を朗読する予定が
コロナ感染拡大防止のため、
市のホームページに載せるのみになった。
goizoku_kotoba26.pdf (kobe.lg.jp)
私が思い出したのは
20年以上前にもらったこの一冊だ。
翠さんのお父様である
加賀幸夫さん(享年75歳)からいただいた。
「森南まち」
震災で加賀さんはお孫さん(翠さんの長女)の桜子さん(当時6歳)を
失った。一階で幸夫さんと桜子さんは一緒に寝ていたところで
地震が起き、桜子さんが生き埋め状態になり
助からなかった。幸夫さんは自身を責め、
翠さんも気丈に振る舞うかたわらで
感情があふれ出すこともあり、幸夫さんの膝で
子どものように泣いたことが2度もあった。
(どちらも新聞うずみ火2020年2月号より。)
動き出した「心の時計」 | うずみ火 (uzumibi.net)
話を「森南まち」に戻す。
上の写真の2番目にもあるように
加賀さんの自宅があった東灘区の森南地区も
多くの被害を受けたが、それに追い打ちをかけたのが
神戸市から提示された
「減歩10%無償でいただく、ダメなら清算金を払え」という
土地区画整理事業だった。
加賀さんを含む森南地区の住民は当然反発した。
そして動き出したのは
「まちづくり憲章」にもとづく住民主体の
復興事業を市に提案して
同じ土俵での話し合いで今後のことを
決めていく選択だった。
「桜子に誇れる街をつくりたい」
幸夫さんはまちづくりを進める住民側の
協議会の会長として粘り強く
集会や協議の場を何度もつくり
その結果、減歩率は最大で2.5%まで譲歩され
大型道路ありきの土地区画整理事業ではない
住民たちが徒歩で移動しやすい
公共施設(森南ふれあい会館など)の場所が分かりやすい
街づくりが進められた。
もっとも完了したのは10年後の2005年で
協議会も地区ごとに分裂するなど
幸夫さんも翠さんも大変な苦労を強いられたが
その時のプロセスとなった内容が
いまでも「森南まち」の中にしっかりと
遺されている。
この本の最後で幸夫さんは桜子さんの名前を借りて
3つの「お願い」を記している。
1つ目は被害状況や救援の発信がないところほど
行政は絶えず注意して情報を発信してほしい。
2つ目は震災直後はマスコミなどのヘリコプターや
サイレンの音でガレキの下にうずくまっている人の声が
届かないことが多い。
そのためにサイレントタイムを設けて
救援活動に役立つようにしてほしい。
そして3つ目は、
被害を受けた建造物の検証だけでなく
それが軽かったり無事だった
建物(例としてJR三ノ宮駅を挙げていた)の
検証も必要ではないかと。
このおねがいはとても重要だと思うが
果たして東日本大震災のときはどうだったか。
あまり話には出てきてないような気がする。
幸夫さんが亡くなったのは
2009年だったそうだ。
大人になったチビちゃん 夢に出てきて 笑顔を見せて [阪神・淡路大震災]:朝日新聞デジタル (asahi.com)