阪神淡路大震災で思い出したあの人のこと

18日、阪神淡路大震災の日。

早朝の追悼行事をNHKで見た。

深夜はドキュメント番組を2つ見た。

(このことについてはまたの機会に)

そしてきのうの東京新聞社会面。

f:id:shiraike:20210118233037j:plain

その記事の中で「あっ!」。

ある人の名前を思い出したのだ。

f:id:shiraike:20210118233214j:plain

神戸市遺族の代表、加賀翠さん(65歳)。

追悼行事で上の写真にある「ことば」を朗読する予定が

コロナ感染拡大防止のため、

市のホームページに載せるのみになった。

goizoku_kotoba26.pdf (kobe.lg.jp)

私が思い出したのは

20年以上前にもらったこの一冊だ。

f:id:shiraike:20210118233954j:plain

翠さんのお父様である

加賀幸夫さん(享年75歳)からいただいた。

「森南まち」

震災で加賀さんはお孫さん(翠さんの長女)の桜子さん(当時6歳)を

失った。一階で幸夫さんと桜子さんは一緒に寝ていたところで

地震が起き、桜子さんが生き埋め状態になり

助からなかった。幸夫さんは自身を責め、

翠さんも気丈に振る舞うかたわらで

感情があふれ出すこともあり、幸夫さんの膝で

子どものように泣いたことが2度もあった。

f:id:shiraike:20210118234803j:plain

f:id:shiraike:20210118234830j:plain

(どちらも新聞うずみ火2020年2月号より。)

動き出した「心の時計」 | うずみ火 (uzumibi.net)

話を「森南まち」に戻す。

上の写真の2番目にもあるように

加賀さんの自宅があった東灘区の森南地区も

多くの被害を受けたが、それに追い打ちをかけたのが

神戸市から提示された

「減歩10%無償でいただく、ダメなら清算金を払え」という

土地区画整理事業だった。

加賀さんを含む森南地区の住民は当然反発した。

そして動き出したのは

「まちづくり憲章」にもとづく住民主体の

復興事業を市に提案して

同じ土俵での話し合いで今後のことを

決めていく選択だった。

 

「桜子に誇れる街をつくりたい」

 

幸夫さんはまちづくりを進める住民側の

協議会の会長として粘り強く

集会や協議の場を何度もつくり

その結果、減歩率は最大で2.5%まで譲歩され

大型道路ありきの土地区画整理事業ではない

住民たちが徒歩で移動しやすい

公共施設(森南ふれあい会館など)の場所が分かりやすい

街づくりが進められた。

もっとも完了したのは10年後の2005年で

協議会も地区ごとに分裂するなど

幸夫さんも翠さんも大変な苦労を強いられたが

その時のプロセスとなった内容が

いまでも「森南まち」の中にしっかりと

遺されている。

f:id:shiraike:20210119001449j:plain

この本の最後で幸夫さんは桜子さんの名前を借りて

3つの「お願い」を記している。

1つ目は被害状況や救援の発信がないところほど

行政は絶えず注意して情報を発信してほしい。

2つ目は震災直後はマスコミなどのヘリコプターや

サイレンの音でガレキの下にうずくまっている人の声が

届かないことが多い。

そのためにサイレントタイムを設けて

救援活動に役立つようにしてほしい。

そして3つ目は、

被害を受けた建造物の検証だけでなく

それが軽かったり無事だった

建物(例としてJR三ノ宮駅を挙げていた)の

検証も必要ではないかと。

 

このおねがいはとても重要だと思うが

果たして東日本大震災のときはどうだったか。

あまり話には出てきてないような気がする。

 

幸夫さんが亡くなったのは

2009年だったそうだ。

 

大人になったチビちゃん 夢に出てきて 笑顔を見せて [阪神・淡路大震災]:朝日新聞デジタル (asahi.com)