本当に残念な知らせだ。
「チャラ~ン」で
「笑点」の顔として活躍し、そして
「うっかりピッカリコシヒカリ~
ごはんがうまくて また食ったまた食った」と
コシヒカリ音頭などで
新潟県を売り込んでくれた、
17日に亡くなったと
おととい21日のニュースが伝えた。(享年77歳)
きのうの読売新聞「編集手帳」には
中学卒業手前に米一俵かついで
林家三平邸(もちろん初代のほう)を訪ね
弟子入りをお願いした。
三平さんは「進学しなさい」と断ろうとしたが
おかみさんの海老名香葉子さんが
「お米、食べちゃったわよ。」
それで弟子入りが許されたエピソードが載っていた。
もっともこの件については
「評伝 林家三平」(神津友好著)で読んで
知っているが、記事では
三平さんがまだ真打ちになる前の話で
「真打ちになるまで弟子はとらない」と
決めていたが、結局こうなったことを
初めて知った。
しかし三平さんが1980年に55歳で亡くなったときに
「自分が三平一門を支えます」とおかみさんに誓い
2代目三平(元いっ平)の大きな流れを
落語界でつくり上げ、ムードメーカーとしての功績も大きい。
何度も疑問に感じていたが、
いまの長岡市小国町千谷沢、
当時の刈羽郡千谷沢村の出身と後で知り
「ちやざわ」の読みから「チャーザー」となったことに
なるほどと思ったこともあった。
きのう発売の「日刊ゲンダイ」では
こん平さんに関する記事があり、
それによるとこれまで落語家(噺家)といえば
「江戸っ子」がなるものだといわれていた。
しかしこん平さんの活躍で
地方出身者が落語界に入る機会がたくさん生まれ
名人クラスがたくさん出るようになったと。
まさに落語の常識を変えた
陰の立役者というわけだ。
多発性硬化症という難病を患い、
長き闘病生活を送りながらも
都電落語会を行い、
「らくご卓球クラブ」で
卓球を盛り上げたこともあった。
それではご冥福をお祈りつつ
「1・2・3・チャラ~~~~~ン!」
元「笑点」林家こん平さん死去…本紙に語っていた闘病秘話|日刊ゲンダイDIGITAL (nikkan-gendai.com)
海老名香葉子「私より先に…」林家こん平さん悼む - おくやみ : 日刊スポーツ (nikkansports.com)