#東京大空襲 戦災資料センターに2日連続で行ったこと( #終戦記念日 #敗戦記念日 #終戦 #敗戦 )

夏休みを利用して

東京・江東区北砂にある

東京大空襲戦災資料センターに行ってきた。

まず14日。お墓参りに行ったあとに足を伸ばしたが

月曜日が定休日であることを忘れていたのだ。

その代わりに玄関前にあった

防火水槽や「戦火の下で」の親子像、


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さらに庭石や平和地蔵を撮って

また翌日に。


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ちょうど終戦(敗戦)記念日だった。

1階は特別企画の準備中だったため

2階の展示室を先に見てきた。

コロナ前に見た時よりさらにリニューアルしていて

戦前から戦後、5度の東京空襲の被害の実態(とくに3月10日の)

新たに戦時中に動員された朝鮮人たちの被害や

当時に起こったベトナムの飢餓状態の展示もあった。

1944~45年にベトナムから多くの米が

日本に供出されて自分たちで食べる分がなくなったからだ。

最後に空襲被害者が国で補償されない実態とそれを実現させるための運動や

この資料センターができるまでの歴史までも展示されていた。

QRコードをかざせば資料映像がスマホで見ることも出来るようになった。

だからこそ親子連れでも学校単位でもいいから

もっと来て見てもらいたい。

午後からその特別企画がオンラインと会場(予約制)のダブルで行われ

私は1階の談話室で

藤間宏夫さん(85歳・埼玉県草加市在住)の話を聞いた。

1945年3月10日に日本橋区浜町(今の中央区日本橋浜町)で

最初の被災、火の海のなかで母と3人で逃げ

火の海の中をどこかわからないレンガ造りの建物の中で

「室内は蒸しやきになるくらい暑く、苦しかった。」

4月25日にはいまの港区六本木界隈で2度目の被災。

焼け跡のなかを生き延び

静岡の遠い親戚を頼って疎開するも

食べ物に困り、野草や靴と足の間にはさんで柔らかくした紙切れなどを食べて

飢えをしのぐしかなかった。

「口の中から足先まで全身が回虫とサナダムシだらけだった。

 いま同じ体験をしようにも出来ることではないだろう。」

「戦争反対っていうのは思想じゃない。

 泣くのは家族で、国は泣いてくれない。」

まさに戦争でいつも最初から最後まで泣かされるのは

名もなき一国民(それも弱者)たちなのだ。

談話室では多くの本や資料がたくさんあったが

1971年の「週刊マーガレット」や

1972年の「週刊少年マガジン」も読むことが出来た。

マガジンでは東京大空襲の特集号で

あしたのジョー」や「空手バカ一代」も連載中だった。

いまの漫画雑誌はよほどのことがない限り

戦争を題材に書くことなどできないだろうと強く感じた。

かわぐちかいじさんのような例外もあるが。)

 

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