新聞うずみ火沖縄ツアー(3)

(承前)22日の恩納村博物館は慰霊の日企画展

恩納村に近づく戦争の足音」を開催中だった。

その展示ブースに足を運ぶと、まず最初に見たのは、

恩名村に今でも残る戦の跡だった。

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1945年(昭和20年)3月26日に

慶良間諸島から上陸したアメリカ軍は、4月には本島の読谷・北谷の海岸に

上陸し恩名村から宜野座村(当時は旧金武・久志村)には

2日~6日の間に侵攻。そして北部(やんばる)方面へは

7日に名護、そして北端の辺戸岬には13日までに到達している。

展示写真では石川岳の蛸壺跡、喜瀬武原(きせんばる)の御待毛(うまちもう)

に残る銃弾痕(住民と日本軍兵士がここにこもっていた)。

そして写真では残さなかったが、ギナン原のトーチカ跡の展示もあった。

そして左下にある赤橋(南恩納)の跡。

橋が破壊されたままの姿で今でも遺っているが

その行動を起こしたのが少年兵・護郷隊(ごぎょうたい)である。

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1944年9月から翌年3月まで約1000名の少年(当時15~19歳)

が召集され、山の奥深くからのゲリラ戦を仕掛けるために結成された部隊のことで、

「護郷隊が作られたころ、兵士が命と引換えに突撃する『特攻』を行うほど、

 日本は完全に追い詰められた状態でした。そんな中、

 いずれはじまる本土決戦にむけて、時間稼ぎをするための

 持久戦を課されたのが沖縄でつくられた護郷隊でした。」

「1944年8月29日、陸軍大臣が遊撃戦(ゲリラ戦)を行う

 部隊編成の命令を出しました。(『遊撃隊臨時編成要領細則』)

 そこには隊員は「少壮」(若くて元気一杯なこと)で

 「積極果敢なる者」で、さらに「徴兵終決処分未了」

 (徴兵検査以前の年齢の者)にするように命令が

 出されていました。(後略)」(いずれも展示の説明から)

陸軍中野学校出身の岩波壽大隊長の下で

国頭・大宜味・東村から召集された388人の少年たちは

第二護郷隊として編成に組み込まれ、

軍隊と同じ訓練を行い、当初は生まれ育った場所で

地の利を生かしたゲリラ戦を優位に進める配置を予定していたが、

沖縄にいた第9師団が台湾に移動したため、

名護市の旧羽地村にあった多野岳一帯に配備され、

1945年1月には読谷の北飛行場と

嘉手納町の中飛行場、そして恩名岳を守るために

その山岳地帯に陣地をつくり、ゲリラ戦を行う準備を進める

準備を進めたが、

少年兵にとっては土地勘の薄い場所での戦いを余儀なくされ、

恩名岳で米軍の包囲網に追い詰められ、前述の喜瀬武原へと

脱出そして撤退することになる。

「恩名近くの山奥には避難民、友軍の敗残兵、

 護郷隊の少年兵、朝鮮娘等、大勢集まって

 ごった返していました。

 山道には体力のない人、老人などが

 精も根も尽き果てて飢え死にし、

 また死の寸前で息も絶え絶えに、食べ物や水を

 恵んでくれるよう嘆願している姿もいっぱい

 見受けました。(女性・19歳)

 『那覇市史資料編第2巻中の6』」(展示資料より)

第2護郷隊は米軍の侵攻を食い止めるため

恩名や金武の橋を破壊してきたが、米軍はブルドーザーで

橋の両側を埋めてすぐに車を通した。

また山中にライトをいっぱいつけてテントをはっていた

米軍に機関銃を撃ったあとに引き揚げた先で

照明弾があがり反撃弾を撃たれたことや

銃撃のみならず迫撃砲などの連続攻撃が続いたことで

もはやゲリラ戦どころではない状況だったと。

当時の証言がそれを伝えている。

そして映画「沖縄スパイ戦史」でも証言していた

人々もやんばるの沖縄戦を語り伝えるために

語り、様々な形で遺そうとしている人たちがいた。

(つづく)

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