新聞うずみ火沖縄ツアー(2)

2019年新聞うずみ火沖縄ツアーの2日目。

22日はジュンク堂書店那覇店前から出発。

この日は参加者全員参加で25名以上が

マイクロバスに乗り込んだ。

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お世話になったカリー観光のバス

まず向かったのは恩名村博物館。

予定より少し早く着いたため9時の開館時間まで外で待つが

雨が少し気になる。時間になり中に入ると

戦争に関する展示を見つけてじっくりと。

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伊江島飛行場建設の徴用についての展示。

1944年5~8月まで多くの沖縄県民が動員されその数は37840人。

恩納村からも1198人。建設にあたった第50飛行場大隊の記録では

5月8日  186名

5月18日 178名

5月28日 187名

6月27日 139名

7月7日  94名

7月27日 93名

8月6日  88名

8月16日 75名

8月26日 73名 と書かれてあった。

建設された滑走路は沖縄戦で使われることがなく、

1945年に破壊命令が出され放棄されることになったが

今では米軍の飛行場がこの島に存在する。

「昭和19年3月、恩名国民学校を卒業した。

 その頃、伊江島では飛行場建設が進められていた。

 建設工事には多くの人々が徴用されて働いていた。

 村内外からも婦女子が動員されていた。

 私も徴用令をうけて建設工事に従事した。

 同級生や村内の人々も一緒に徴用された。

 15日から20日間の交替で延回数は10回程でだった。

 滑走路建設が主な仕事だった。現場には運搬用トラック1台と

 ローラーがあるだけで、あとは荷馬車と人力による作業であった。

 10月10日、午前8時頃、突然飛来した米軍艦載機による

 空襲を受けた。建設中の滑走路や飯場に爆弾が投下され、

 機銃掃射を受けて大きな被害を出した。私達は、

 危うく難を逃れ、命びろいした。

 その日は多くの徴用人夫男女は千人豪で一夜を明かした。

 (太田 津波古守喜)」

過酷な作業、そして突然の空襲は地獄を見た思いだろう。

まして国民学校卒業ではまだ13歳前後というわけだから

大人も子供もなく働かされたことになる。

戦争が生んだ理不尽さを新たに見た思いだったが、

ここはまだロビーで、このあとに別の展示室で開催されていた

慰霊の日企画展「恩納村に近づく戦争の足音」

でさらに学びの場を深めることになった。

(つづく)

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恩納村博物館のエントランス サバ二も展示されていた

www.tokyo-np.co.jp

www.onna-culture.jp