沖縄では、あの壮絶なる地上戦を逃げ延びた人たちが
高齢化して過去の記憶に苦しめられる
たくさん出ているということを
過去のテレビ(TBSテレビだったか?)で見たことがある。
しかしそれだけではないことを
13日深夜に見たNNNドキュメント(日テレ・山形放送制作)で
知った。
「でくのぼう 戦争とPTSD」
東京の武蔵村山市に自分の肉親が
戦争から引き揚げたあとに
その変わった表情などに悩まされた体験を語り合う場所がある。
この場を提供する代表の黒井秋夫さん(74歳・山形県鶴岡市出身)の
父・慶次郎さんは終戦(または敗戦)の翌年に
34歳で中国から故郷の山形に引き揚げた。
その2年後に秋夫さんが産まれたが
慶次郎さんは周囲から「でくのぼう」と呼ばれるほど
まともに仕事ができず
秋夫さんにとっても「役に立たない存在」だった。
ほとんどしゃべることもなかったそうだ。
1990年に77歳でこの世を去ったが
秋夫さんが8年前にアレン・ネルソンさんのドキュメンタリーを見たことで
考え方が変わった。
ベトナム戦争で壮絶なる体験で心の傷を負ったネルソンさんと
慶次郎さんと重なったのだ。
軍隊時代は精悍で勇ましさを手紙に残した慶次郎さんだったが
匪賊と呼ばれた中国軍(当時)ゲリラ部隊との戦いで
精神に異常を来たしたのだ。
軍隊のみならず罪のない民間人や女子供などを
ゲリラ扱いで虐殺したことが
ずっと記憶を支配し続けたのだ。
(2度目の召集では漢口爆撃に巻き込まれた。)
番組では同じ時期に入隊した
過去のドキュメンタリーで振り返った。
慶次郎さんより1年早く同じ部隊に入った土屋さんは
上官の命令で中国人の捕虜を串刺し(刺突)を
行ったと証言し、その遺族に
土下座した謝ったという記録だ。
「虫すら殺せない(土屋さんが)
刺突訓練によってまったく変わってしまった。」
「一般民衆だろうがなかろうが
大隊長が『抗日軍だ』とあるいはこの集落がこういうのの巣だと
指令を出したら逆らうことができない(中略)戦争とはそういうもの。」
(土屋さんの手記を遺した上山市在住の花烏賊康繁さんの証言、番組より。)
意に合わない殺害命令を受けて
罪のない人を殺した元日本兵の中には
復員しても家族のもとには帰れず
療養所や精神病院で人生の最期を迎える人たちが少なくなかった。
その当時の資料(病床日誌)は
国府台陸軍病院(現・国立国際医療研究センター国府台病院)から
東金市の浅井病院に移されたが
そのカルテは8002人分におよぶ。
決して少数ではない。
実際には1万人も収容していたという。
「どうして言ってくれなかったんだ。」
いまの秋夫さんは同じ遺族たちと語り合うことと
次の世代に語り継ぐための活動を行っている。
この現実はいま
世界中のあちこちで起こっているはずである。
平和な日本であっても決して無視することは
出来ないはずだ。