沖縄・西表島・「緑の牢獄」(キネ旬シアターで映画)

まもなく沖縄慰霊の日が近づくが

今年は沖縄に行くのをあきらめ

読書や映画で考えることに切り替えた。

きのう19日は柏市キネマ旬報シアターで

黄インイク監督作品の

「緑の牢獄」を見た(2021年作品・23日まで)

2018年に亡くなった橋間良子さんの最期の生活と

その中から出てきた言葉とその周辺を少しづつ積み上げることで

第二次世界大戦における

沖縄・西表島の知られざる歴史をさらけ出していくストーリーに

なっている。

橋間さんは1926年(大正15)にいまの台湾・新北市に生まれる。

そしてすぐに養子にもらわれる。

「もう兄さんと呼ばなくたっていいんだ。

 それがわかったんだ。」

一家が西表島に突然移住したのは1936(昭和12)年頃。

農業をやっていた養父が友人の誘いをうけて基隆や瑞芳などの

炭鉱で働いていたらそこの幹部から

西表島の「南海炭鉱(南海會社)」へのスカウトを受けたからだ。

しかし、「あそこは家族連れではなく一人暮らしの男が行くところ。」

「お前たちは殺されにいくのか」「琉球は毒のある島だ。」

と友達から言われたそうだ。

「横になると、ここに初めて来たときのことを思い出す。」

劣悪な環境のなかで働くことの意欲を失い

モルヒネに手を出したりお金がらみで騙し合ったり

木に吊るされて殴られているところを見たこともあったのだと。

そして橋間さんは「兄さん」と結婚して子供を産み、

沖縄戦が激化したときに最初の子を亡くし

近隣の台湾人家庭から

「広島のニイニイ」を養子に迎える。

終戦後に台湾に引き揚げたときにその前(7月)に生まれた長男が

「国民党軍上がりの軍医」に注射を打たれたあとに

ポリオ(小児麻痺)を羅患。

「いまは石垣にいる。左手と左足が不自由だけど

 これは軍医を恨んでもしょうがない。あの頃はああだったんだから。」

それから2年後に密航で一家は再び西表島へ。

「養父は台湾でタイヤを集める仕事をしていた。」

しかし西表では仲良川の二番川の奥に開拓地を設けて

農業で生計を建てるも

朝鮮戦争特需による西表の森林開発が盛んになると

養父は出稼ぎに来た同胞を束ねて参加するようになった。

(パンフレット参照)

次男が大学で差別されているのをきっかけに

日本に帰化して「橋間家」になるも

勤めていた会社の倒産後に行方不明になったり

「広島のニイニイ」も1970年代に亡くなったりするなどで

白浜港に近い「おばぁの家」は一人暮らしになってしまった。

一時期はルイスというアメリカから来た青年が

居候として暮らしていたが

「自分は日本に行きたい。沖縄は日本と違うところがある。」として

関西に移住する。でもここで暮らしたことで

また頑張ってみようと思ったそうだ。

西表島に炭鉱があったことなんて知らなかった。

そして台湾と八重山諸島のつながりは

地理的条件を越えた「何か」を

この映画で初めて知ったことが多かった。

戦争の悲惨さよりも

家族が自らの安住の地を求めて

ひたすら旅を続けていくこと。

最期の選択が決して故郷とある母国ではなく

異国である西表島であることの「なぜ?」という疑問が

少しづつ解き明かされるような感じだった。

歴史の変化による激流のなかに揉まれて

それでも「生きていく」ことをあきらめず

老境を迎えた橋間さんの姿は

怒りよりも穏やかさの表情ばかりだった。

そしてお墓の前で亡くなった養父母やその祖父母の霊に

語りかける。

「じきにそっちに行くからまた会おうね。」

島の自然が牢獄なのだろうか。

そこに埋もれた炭鉱や林業などの

開発の痕。それも緑が埋め尽くして跡形もない。

ただこの島に再び戦争が押し寄せてくるのだろうか。

そうはあってはならないのである。

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