知られざる終戦直後の浮島丸事件 #朝鮮人 労働者の乗船名簿が見つかる( #第二次世界大戦 #太平洋戦争 #米軍 #戦後史 )

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太平洋戦争終戦直後の

1945年(昭和20年)8月22日に

朝鮮人労働者を乗せて大湊港(青森)を発ち

その2日後、舞鶴港(京都)で爆発し沈没した

浮島丸事件は戦後史でほとんど知られていない。


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東京新聞27日夕刊で

ジャーナリスト布施祐仁の情報公開請求によって

政府が乗船者の大半が記されていた名簿を保有していたことが

23日に明らかになった。

この事件については

遺族による国家賠償請求訴訟(国賠)で

乗船者名簿は「乗船後に作成し船に備えたもの」と定義し

沈没で喪失したとして乗船者の氏名を確認することが出来ないとしたことを

第二審と上告審が認めたことにより原告敗訴となった。

そして、今回開示された名簿においても

事故後の調査の調査を経て作成されたものであって

本物の名簿とは作成時期が違うから

「別物」だと説明しているそうだ。

(沈没の原因は米軍の地雷によるものとしている)

3種類ある名簿は海軍や企業がそれぞれ作成したものとみられ、

大湊海軍施設部の名簿では「24日乗船、総員2429名」

第4部隊長名のでは「浮島丸乗船朝鮮人名簿」として

「144名、8月22日」。

さらに大湊地方復員局長官の1946年4月16日の文章では

朝鮮人乗客数は

「大湊海軍施設部2838人

 海軍施設協力会および日通897人 計3735人」

さらに強引に便乗した者もいて別に追加名簿を作成したが

沈没で喪失、推察するに70人程度と書いてあったと。

すなわち名簿を保管していたが

その後、政府が浮島丸事件の詳細について

積極的に調べようとせずに

そのままほったらかしにしていたことが

明らかになったということではないだろうか。

この点は関東大震災のときの

朝鮮人虐殺にも重なる(福田村事件も)。

布施氏は開示された名簿は

国賠訴訟で求められた名簿と違うというのは「詭弁」だとして

訴訟中に文科省厚労省と資料の扱いを巡って

協議した文書も「黒塗り」で開示されたことから

名簿の存在を隠そうとしていたのではないか疑い

政府には説明責任があるとして

関連文書を公開すべきだと。

まったく同意だ。

以前のブログで「密航のち洗濯 ときどき作家」を買ったことを

書いたが、中心人物である「洗濯屋」は

911年に韓国・蔚山で生まれ

植民地時代の影響で12歳で日本に渡りながらも

1944年に妻と再び半島に戻り、そこで終戦を迎えながらも

南北分裂で荒れる故郷を1946年に離れて日本に戻った。

この本についてはまた詳しく書く予定だが

もしも浮島丸が沈没しなかったら

乗っていた朝鮮人たちは半島へ再び戻り

どんな人生を送ることになったのだろうか。

しかし現実には事件どころか浮島丸の存在がなかったことに

されようとしている。

祐天寺(東京・目黒)には犠牲者280人の遺骨が保管されているが

死者の数は乗客524人、乗員25人とされた。

謎は残ったままである。

www.tokyo-np.co.jp

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