原爆被害を訴え続けた「普通の人」山口仙二さんの場合

おととい9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では

広島県知事・広島市長につづき

鈴木史朗長崎市長

G7サミットで締結された「広島ビジョン」の核抑止論を全面的に否定。

「私たちの安全を本当に守るには、地球上から核兵器をなくすしかない」と訴えた。

さらに、谷口稜曄(すみてる)さんの被爆体験も取り上げて

「過去の苦しみなど忘れ去られつつあるように見えます。

 私はその忘却を恐れます。

 忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。」

の言葉から今の世界を予見したかのようだと

平和宣言で。


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しかし、私はもう一人の被爆者を取り上げたい。

山口仙二さんだ。

初めて知ったのは元長崎市長本島等さんとの共著

「ゆるす思想(こころ)ゆるさぬ思想ー若い世代と語る平和・原爆・いま・未来」

だった。

自民党の県議から長崎市長になり

「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と市議会で発言したことで

銃撃された本島氏と

ずっと市民の一人として

反核運動を続けた山口氏との関係は

意外だとも言われたが

平和を守る力とか拠り所になるのは

保守や革新を越えたところにあるのだということを

知ってほしい、とくに若い世代にはという

想いがこの本に現れていた。

なかでも山口氏の被爆体験には

目を覆うしかなかった。

谷口氏も背中に骨まで達する大きな火傷で

ケロイドが残ってしまったように

山口氏も放射線の熱で顔や手が激しくえぐられたのだ。

1984年から長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長も務め、

被爆者援護法の実現を目指し、全国を駆け回り

1989年9月には核搭載疑惑が持たれた米艦船が

被爆者らの反対を押し切って長崎に入港。

その艦長が平和公園に献花した花輪を、仙二らが踏み付ける事件が起きた。

被爆者からの批判がありながらも

筋を通した。前述の本はそれから4年後に出されたのだ。

市民が主体となって平和や核軍縮を訴えることは

なにも珍しいことではなくなった。

しかしこの思いが為政者たちに届くことは

あまりにも少ない。

せめて奔走して諦めなかった市民たちの歴史を

もっと保存することが出来ないだろうか。

それがダメなら

次の世代に語り継ぐ努力をもっとやってほしい。

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