雑誌「話の特集」の編集長を務めて
休刊してからは「週刊金曜日」で
同じ題名の企画で文章を書き続けた
矢崎泰久さんが亡くなった。
昨年の12月30日、享年89歳。
私は矢崎さんのことは
永六輔さんがラジオや本で時々しゃべるときしか
知ることがなかった。
しかしある日、松戸駅前の
BOOKOFFじゃない古本屋(めったに店を開けるのを見ない)で
「話の特集」を3冊買うことが出来たのだ。
その中身はまさにサブカルチャーの域を超えて
もはやアナーキーに富んだものだが
それでも黒柳徹子さんが岡田嘉子さんや(1974年7月号・写真右)
坂東玉三郎さん(同年10月号・写真左)と対談していたり
俳優の藤竜也さんが小説を発表いていたり(同7月号)、
あの久米宏さんが31歳の誕生日を迎えたことのエッセイを書いていたり
(同10月号)、
その中でやっぱり目立っていたのは永六輔さん。
表紙裏の浅田飴の広告。
これは何かと言うとこの年に行われた参議院選挙と
歌手デビュー(「生きていくということは」)をもじった
コラボものだが、まさに金鳥も真っ青の凄さで
いまだったらSNSで炎上ものだが
これに当時の20代以降の大人たちが飛びついて
社会現象にもなった。
そしてここからテレビの「徹子の部屋」や
ラジオの「誰かとどこかで」「土曜ワイド・永六輔その新世界」に
繋がっていったことがよくわかった。
田原総一朗さんも「家族無用論」と題して
当時の公害や子棄て(コインロッカーベビーと言われた)などの
混乱する社会情勢をなんとかぶっ壊してやりたいという
過激な評論を書いている(1973年9月号・写真中)。
これだって「朝まで生テレビ!」に繋がるものがあった。
矢崎さんはまさに多くの文化人と
マスコミとの橋渡しに貢献した人物でありながら
マスコミに踊らされない編集者としての矜持を保ち続けた人と
言えるかもしれない。
矢崎さんが自宅で介護を受けた時に
「下の世話」をするのは同性のヘルパーでないことに
憤っていたと連載エッセイで。
この発想はいまの文化人にはないことだろう。
でもこれが一番大切かもしれないと思った。
心からご冥福をお祈り申し上げます。