去年見た映画「津軽のカマリ」で受けた 生きることの「執念」

津軽三味線の初代高橋竹山

永六輔さんの著書でその名前を知り、

やはり永さんのテレビ番組などで

その演奏の時の迫力を体感して

青森・津軽の冬の寒さの中で生み出された

魂の響きに何か引きつかれるものを覚えたことがある。

昨年の12月1日、CS放送で見た

映画「津軽のカマリ」は

その竹山の生きざまの全てが凝縮されていた。

子どものころから徐々に視力が落ちて

全盲になった竹山は三味線、尺八と

音が出るものに関心を持ち

これを自分のものにすることで

食うため、生きるための道を掴む。

そして自分の思いを表現するための全てが

演奏という形で完成し、歴史として遺されていく。

「ほいと」と呼ばれた門付芸人になって

多くの家をまわり、そこで弾き

施しをいただくという

放浪の旅をつづけた頃から、

戦争という悲しい歴史を

「じょんがら節」という形で

記憶と感情で残していくという仕事まで果たしていく。

その旅は沖縄まで広げて

私も何度も訪ねた「白梅の塔」や摩文仁

青森県「みちのくの塔」にも足を運んでいる。

映画では2代目の竹山が再訪している。

また東日本大震災で被害を負った

岩手県野田村では

1933年(昭和8年)に昭和三陸地震が起きて

当時旅芸人一座との巡業中だった竹山は

その時の津波に遭遇して

地元・玉川の人々に手伝ってもらって

命からがら逃げ延びることができたということもあり

いまでは2代目がここでコンサートを行い

南部牛追唄を歌い弾いたシーンもあった。

また弟子の証言として

北海道に渡った時に

餓死寸前になって助けてもらったのが

韓国の人だったことから

アリランも三味線で唄ったこともあり

それがラストソングになったということも。

「初代竹山は言う。

 子供の頃の記憶は全て祭りだ。

 なぜか色まではっきり瞼にうかぶと。

 一人遠くで門付けをしていた青年時代。

 時に悲しみが極まる。そんな時は

 極彩色を帯びた強い郷愁に襲われた。」

それがねぶた祭りなのだ。

竹山の生きざまは常に故郷と

それを支える大地と自然と

かけがえのない人々の一期一会のなかにあった。

86歳の時に咽頭癌になった時は

既に第一線を引退していたが

地元の夜越山温泉の催しでは

最期まで演奏を繰り返していた。

ここまでいくと

三味線やすべての歌と奏でを

「生業」とした一生となるのだが

竹山はあくまでも

生活のための手段と謙遜するだけ。

生きていくことをあきらめずに

信じているものを自分の手でつかみ

ただひたすらに弾きつづけたすべての軌跡は

青森の人々なら誰もが知っている

かけがえのない記憶になっているはずだ。

この映画は大西功一監督が

多くの市民の支援を受けて作られた作品で

現在も全国で自主講演会が行われているとのこと。

三味線や青森に興味がない人たちにも

ぜひみてほしいと思った。

ここにも日本人が知ってほしい

誇りある時代があるからなのだ。

「(自分のことを)ゴミ野郎という人さえいましたよ。

  私はね、そういう人に対して三味線を弾くのは

  並大抵のことではありません。

  しかし皆さん、

  私は食っていくために何を言われようとも

  続けていくしかないでしょう。

  食わなきゃ死ぬんだから。

  私ゃね、少しでも皆さんに聴いてもらえるように

  なりたいと思って、

  一生懸命稽古しましたよ。

  私は自分で自分の罪を恨んでる

  三味線を弾いてるんですよ。

  まあ、いいでしょう。」

  

  

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