3年ぶりに伊勢さつきさんの語りを聞く

コロナ禍ですべてがストップしてしまった。

それが今年から少しづつ再開した。

きのう行ってきた

横浜の本牧・山手九条の会主催の

「横浜大空襲を語り継ぐつどい」だった。

3年前にお話を聞いた伊勢さつきさんの

横浜大空襲の経験談

語り「岸壁の母のストーリー」と「南極タロ・ジロ物語」の

3本立てだった。

85歳になる伊勢さんは1945年(昭和20)5月29日に

現在の中区や西区・神奈川区・南区が

朝9時20分頃にB29連隊による爆撃を受けて

母と弟2人とともに自宅の畳の下の防空壕に避難したが

普段の空襲警報と違った周りの状況に

「逃げよう」と他の防空壕に移ったが

断られ、高台に避難せざるを得ず

全てが焼かれた市街地を黙ってみているしかなかった。


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やがて近くの西戸部国民学校に入れてくれることになり

そこで終戦を迎えた。

母が「戦争が終わったよー」と叫んだことを

いまでも覚えている。

そして、もしもあの防空壕に入ることが出来ていたら

「ここで死んでいたかもしれない。」

横浜大空襲は直近の公式発表では

死者3650人、重軽傷者10198人、

行方不明者309人、羅災者311218人と言われているが

その実態は、

8000~10000人もの死者が出たとも

言われている。(重傷者は12000人も)

しかし横浜では市史資料室があっても

空襲の歴史を残す

資料館がないのが実情だ。

東京大空襲江東区に市民出費のセンターがあるが

横浜は体験者が語り伝えない限りは

その記憶が風化される。

それをどうにかしなければならないのに

何をやらないのがおかしいのだ。

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そして岸壁の母のストーリーでは

驚くべき結末があった。

モデルとなった女性が1981年(昭和56)に亡くなったあと

戦死したと思われた一人息子は

実は上海で生きていたことが調査によって明らかにされたが

有名になった母の前でいまさら名乗ることはできないと

話していたのだと。これも戦禍がもたらした悲劇だ。

またタロ・ジロの物語は

南極越冬隊がなぜ1950年代(昭和25~)に実現できたのかという疑問に

明治年間に白瀬矗が南極に上陸して

大和雪原の名前を残したことで

アメリカなどの国が支持してくれたことがきっかけになったということ。

語り部の良さがあれば

残さなければいけない歴史が必ず伝承される。

これからもそうでなければならない。

それにしても伊勢さんの通る声はマイクいらずの

凄さだった。

ありがとうございました。

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