BC級戦犯が遺したもの「つぐない」

第二次世界大戦後に戦犯として裁かれた者は

戦争を起こした当事者である「A級戦犯」と

戦場で捕虜などに残虐な行為をしたなどで

「BC級戦犯」に分かれていた。

いまではその裁判でさえも虚構の固まりとして

コソコソと否定する意見が

SNSで見かけることが多いが、

それではBC級戦犯たちは

どのようにこの裁判と向かい合ったのだろうか?

その思いに迫ったのが

NNNドキュメント「つぐない BC級戦犯の遺言」

だった。(8日深夜に放送)

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福岡県嘉麻市にある碓井平和祈念館に

所蔵されている「世紀の遺書」。

その中にある一人のBC級戦犯の手記、

藤中松雄さん。

旧海軍一等兵曹の頃だった

1945年4月に

墜落した爆撃機の三人の捕虜(米兵)を

数十人で殺害。その中にいたことで

戦犯として逮捕起訴され

判決は死刑。

処刑は1950年4月7日の午後0時半ごろに

行われた。

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その一方で、

旧海軍主計大尉だった

冬至堅太郎さんは

1945年6月15日の福岡大空襲で

母親が奪われたことから

米兵捕虜8名を処刑する時に

当事者として自らの意志で1人処刑、

上官の命令で続けて3人を処刑したと。

その後裁判で1948年12月29日に

判決が言い渡された。

死刑だった。しかしその年の7月に

減刑になって6年後に釈放。

同じ罪を犯したに

どうして片方は死刑で

もう片方は減刑になってしまったのか?

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実は朝鮮戦争の勃発に

かかわりがあるのではと考えられると

識者からの声がある。

4月にはまだ戦争状態ではないから

藤中さんは死刑執行された。

その後の冬至さんは

そうならずに済んだ。

それは朝鮮戦争を機に

日本とアメリカが占領国としての関係から

独立国としての関係に変えることで

日本に「再軍備」を迫ろうとしていたことが

絡んでいたかもしれない。

釈放された冬至さんは

自分が生き残ったのは申し訳ないという思いから、

出版社の仕事の傍らで

藤中さんの遺族らの協力を得て

「世紀の遺書」の出版を実現させた。

それはネトウヨのように

自分の立場を正当化させるのではなく、

戦争は絶対に許さないことと

子どもたちに

「世界絶対平和」に貢献できるように

なってほしいという

「つぐない」と「祈り」と

「願い」に満ち溢れたものであった。

藤中さんの次男の話では

小さい頃に父親がいないこと、

母親からお父さんは戦死したと

言われ続けてきたこと。

そして父が遺した文言からは

「もしも戦争がなかったら

 自分はそのようなことは起こさなかった」

という事を重く受け止めてきた。

そして冬至さんは

自らの手で殺めた4人の地蔵を

菩提寺に建てたことで

「つぐない」を形にした。

この二人とその遺族たちは

戦犯の被害者だけではなく

たしかにあの時、戦場の異様な空気の中で

自らも「加害者」になったことを

遺して伝えていこうと考えている。

これこそが

もっとも平和のために望ましいと思うのだが、

問題なのはその人たちの

訴えや語りに耳を傾けていない

世代が多くなっている

重い現実である。

なんとかならないのだろうか。

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