新聞うずみ火沖縄ツアー(6)

(承前)バスは名護市から本部町に入り昼食休憩。

「もとぶ食堂」で沖縄そばとジューシー(炊き込みご飯)の

定食を食べる。冬瓜の煮物ともずく酢、チャンプルーの小鉢も

ついていて満足感あり。うずみ火のスタッフがおすすめという

だけあって味も最高。「また行きたいね。」

「でもこんな山の中じゃ車がないと行けないね。」

という声がたくさん出た。店の隣にはゲストハウスもあるなど

もう一度訪ねたくなる店だった。

その後北部戦跡の旅を続ける。雨が激しくなる中

八重岳へ、今回の旅がマイクロバスになったのは

この途中の道に桜並木があるからということで

ところどころ樹の枝にバスの屋根がギリギリで

引っかかるところを走り抜けて

三中学徒の碑へ。

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「『碑文
 太平洋戦争も末期の昭和20年3月米軍の烈しい砲爆撃の中を沖縄県立第三中学校生徒数百名は軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰上現役入隊の形で郷土防衛の戦列に馳せ参じた。
 4月1日 米軍が沖縄本島に上陸するや陸上戦の火蓋は切って落され我が三中の生徒は此処八重岳真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し、数十名が、あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった。
 彼等の33回忌を迎えるに当り、学業半ばにして斃れ諸々の思を残して逝った彼等の霊を慰めるとともに平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え二度と再び、かかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより子々孫々に至るまでの永遠の戒としてここにこの碑を建立する。
 諸霊よ安らかに眠り給え
   我等は常に諸霊と共に在らん』

 https://minkara.carview.co.jp/userid/208886/spot/449297/ 

より引用。」(写真も撮ったが帰宅後にブレていたことがわかったため)

「このように当時の県立三中の学徒がこの八重岳で戦ったことが

 生存学徒の証言で明らかになったからこそ、この慰霊碑が出来たわけですが

 三中に限らずほかの中学の学徒もここで戦ったともいわれています。

 だからここに全ての中学の学徒の碑が出来てこそ本当の慰霊に

 なると思うのです。」(案内をしてくれた沖縄タイムス・謝花直美さん)

これには「その通りだよね」との声があがった。私も同意する。

ちなみに碑文には「昭和52年(1977年)4月12日」の建立と

書かれてあった。

予定ではここから更に上にある八重岳野戦病院跡を登って

歩く予定だったが、雨足が激しくなり足元がぬかるんでいる恐れが

あることや、GPSで正確な位置がつかめなかったことから

中止となり、八重岳を降りて次へいくことになった。

「照屋忠英先生遺徳顕彰碑」

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「私は、昭和二十年五月家族と一緒に喜知留川の避難小屋にいた時、突然運天港に駐屯待機している海軍特攻魚雷隊長・白石大尉以下将校五、六名が、喜知留川で洗濯している私の従姉・岸本カナに、厚養館と岸本旅館の避難小屋に案内してくれと来た。御飯もとっていないので、何でも良いから食わしてくれといったので、準備してあった夕食を、すっかり彼等にくれた。おまけに泡盛も飲ませると、皆よろこんで満足そうであった。
 丁度そこに遊びに来ていた名護校の宮里国本先生と私等家族がいる前で、白石大尉が話すには、昨日照屋忠英校長を八重岳に行く途中で殺したという。国本先生、私の妻と三人で、あんな立派な校長先生で、国頭郡教職員会長の要職にあり、住民から尊敬されており、しかもご子息長男・二男は現在出征中である。どんなことがあって殺したのかと尋ねたたら、スパイの疑いで、十分な証拠も得ているといった。次は今帰仁の長田盛徳郵便局長と名護町屋部国民学校長・上原盛栄を殺す番になっていると話していた。
 日本の兵隊たちは、沖縄人にスパイの汚名をかぶせ、無垢な住民が数多く虐殺されている。私が知っている今帰仁村兵事主任・謝花喜睦が、ある日の夕方部落常会中、白石大尉に呼び出されて連行され、近くの畑で虐殺されたと聞いた

(語りつぐ戦争 第1集92ページより)

https://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/407a1b7bda07b7876b61b55e51536ce6

より引用」

「戦争も末期に入ると敵や味方が誰だかわからなくなるんですよ。

 だから現地人がみんなスパイ扱いされるようになる。」(謝花さん)

ここにも史実がある。日本軍の兵は沖縄人が自分を脅かすスパイ行為を

していると決めつけるほど追い詰められた状況が生まれ、

そこからデマなどによる虐殺行為がうまれ、

そこから、戦後になって「軍隊は住民を守らない」という強い思いを

ウチナンチューに今でも植え付けることになる。

名護市街に入ってから東に車を進めて

内原公民館近くに一旦止まる。

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このあたりは武田薬品の薬草園があったところで

「(1944年)『県立三中・同三高女の生徒も決して例外ではなかった。学校の機能はほとんど停止し、三中生徒は伊江島飛行場設営はもちろん、兵器の取り扱いや通信兵として訓練に明け暮れ、三高女生徒は消防団や婦人会にまじって消火・救護訓練、はては竹槍訓練や軍隊の下働きにまで加えられる。三高女生徒の奉仕活動で注目すべきは、内原薬草園のコカの葉採集作業である。コカインの原料として
 武田薬品株式会社が50町歩もの広大な畑をもち、軍隊はじめ、麻酔薬の供給源の一つとなっていた。大阪本社への運搬作業には鮮鮮入寒夫も加わっていたという。』

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_01.html

より引用」

戦前は薬草園だった場所も、「10・10空襲」と翌年3月23

日から3日間も続いた空襲で被害を受け、

当時の名護町民は山奥深く避難するために

ここに近い道を多くの人々が逃げていったと謝花さんからの説明が。

武田薬品に当時の記録を問い合わせても詳しい資料はないと言われたとも。

見た限りではどこに薬草園があったのかはよくわからないくらい

公民館以外は家屋と畑と空き地のみで当時の面影はまったく見られない。

そのあとに田井等(米軍)収容所があった場所へ。

ここも案内版がなくコンクリートづくりの商店の建物と

「沖縄で一番歴史がある民家です」(謝花さん)が隣にあった。

5574人もの住民がここに収容され、その中には

第二護郷隊の平良邦雄さんも軍人と勘違いされて

姉達と引き離されて閉じ込められたいう。

それにしても沖縄の戦跡はひめゆりの塔などの

本土に名の知られた場所はともかく、道路やその周辺が整備されて

当時の歴史を知っているかその関係を研究している専門家でなければ

わからない場所がとても多いなと思った。

やんばるに限らず、ひめゆりがある本島の南部にしてもそうだ。

体験した世代が少なくなっている時代の流れの中で

これからさらに沖縄戦の詳しい事実をどう語り伝えるか

そしてどのような形で次の世代に関心を持ってもらえるかが

最大の課題になっていく。

そしてこのふぃフィールドワークの最終地点へ。

吉田勝廣さんがあの辺野古を見渡せる瀬嵩の浜を

案内してくれることになった。(つづく)

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