新聞うずみ火沖縄ツアー(5)

(承前)恩名村博物館を出た私を含むツアー一行は

バスで東へ移動して第二護郷隊の碑へ。

国道58号線から案内板を右に曲がって入った

上り坂と途中で降りて左にある小さな坂道を

登った丘の上にあった。

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博物館で説明されていた第二護郷隊は国頭・大宜見・東村から召集された

当時15~19歳の少年たちによって編成されたことから

碑の下にはこの隊員たちの名前が刻まれているが、

それ以外の出身地(愛媛県奄美大島など)からの隊員の名前も

あった。これはどういうことかとみんなが思った。

この日のガイドを引き受けてくれた沖縄タイムス記者の

謝花直美さんは「岩波壽大隊長を慕って自ら護衛隊に志願

した人(幹部など)もいる。」と説明、沖縄戦における

護郷隊の使命の重要さがわかるような気がした。

この碑の裏を見てみると、建立は1956年10月であることが

わかった。本土復帰は1972年なのにどうしてなのかと

また疑問の声。これについて謝花さんは

「1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ

 日本は単独講和を果たしましたがどうもそれが

 関係しているようですね。」

沖縄は本土から切り離されてアメリカの統治下に入ったが

戦争の記念碑、それも日本兵の活躍に関することが

許されていたということか。

その近くには「第四十四飛行場大隊之碑」があった。

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嘉手納にある中飛行場の大隊も、護衛隊とともに恩納岳にこもって

激しい戦いを繰り広げてきたが結局多くの犠牲と敗走を余儀なくされたのだ。

ここでも合掌して平和を祈った。

その後2016年に起きた女性強姦殺人事件のあった現場へ。

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ここでは沖縄県政策調整監を務める元金武町長の

吉田勝廣さんが説明。

「以前はたくさんの花と捧げられたペットボトルや缶が

 置かれていたんです。供養のためのテーブルが

 あって。それをずっと清掃していたんですよ。

 このまま置いたままにするとかえってこの場所が

 汚れてしまいますからね。それで最近はロープを

 はって立ち入り禁止にして供物等はおことわりということに

 したんです。」

吉田さんは現場のある恩納村に近い金武町に住んでいることから

自発的に清掃をして私達のような事実を知りたい人々に

説明や案内を希望に応じて行っている。

昨年までの現場も写真に残してある。

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(3つの写真は2018年6月22日撮影)

辺野古基地をつくらせないオール沖縄行動はこの事件の怒りから

始まったが、この動きがいまだに止まらないままだ。

全員で改めて合掌。
 

バスは名護市内に入って市立名護小学校へ。

その隣のさらに高台のほうにある「少年護郷隊之碑」へ。

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第一護郷隊は国頭郡(当時)の17~18歳の少年たちのよって編成された

遊撃隊でここから少し南の多野岳に陣地を構えて山岳のゲリラ戦に臨んだが、

多くの戦死者を出して終戦を迎えた。

バスはさらに本部町へ。その途中で見たものは

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琉球セメントの安和桟橋。

辺野古埋立ての土砂を運搬船に積み込む港だ。

雨が激しいこともあって抗議活動はなかったが、

入り口付近は厳戒態勢を敷いていた。

そして海を見ると写真には残せなかったが

運搬船らしきのが1隻・・2隻・・3隻と

5隻くらいの船が穏やかではない海に漂っているように

見えたが、めざすのは辺野古であろう。

「ここより北の桟橋(本部港塩川地区)が台風で

 壊れてしまったのでこの民間の桟橋を暫定的に使う

 ことになったんです。」(前述・謝花さん)

リアルな埋め立ての現状をまた一つ見てしまった。

許し難いことがここにある。

ちなみに21日は名護市役所を58号線で抜けてから

北上したのでこの海をタクシーから見ることは

なかった。(つづく)

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