続々・「令和」識者の見解を新聞記事から

新しい年号の年に突入したが、

その初日の東京新聞朝刊社会面では

その元号についての専門家から異論が出ていること

を伝えている。

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国文学研究資料館相田満准教授は

典拠となった万葉集がかって国威発揚や戦争に利用されたこと

で「国書からの採用」に警鐘を鳴らしている。

その一例として「海ゆかば」。戦争関係の映画でよくこの歌を

斉唱するシーンがみられるが、もともとは大伴家持長歌の一節を選んだ

歌曲だという。初めて知った。家持の父があの新年号の元歌をうたった

大伴旅人だからこそこの歴史を知ってほしいからこその警告

ということだ。

また万葉学者の品田悦一・東大教授も相田氏と同じ意見で

安倍首相が談話で言っていた「天皇や皇族、貴族だけではなく、

防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が

収められ・・・・」はウソであり、

「庶民の歌として詠まれた東歌(あずまうた)」は庶民ではなく

当時身分が高い国司や郡司による合作と考えられ

国民歌集との位置づけは近代化を目指す明治政府の国策によって

つくられたものだと。つまり今のフィーバーは

明治維新があらゆるものや事が文明開化のもとで進歩した半面、

日本民族ナショナリズムを固定化させるために

万葉集が利用されていたという事実と重なると。

これも今まで知らなかったことだ。

明治という新しい時代の空気の中に万葉集が入っていた

と言われてもどうもイメージが湧かないからだが、

徳川幕府のカラーをリセットするには都合が良かったということか。

東大資料編纂所の本郷和人教授は

「令」を年号に使うべきではない、その理由として

この一文字は天皇の命令ではなく皇太子、親王の命令であり

皇族の執事を示す「家令」のようにへりくだった意味として

使われるともいうのだそうだ。

もっとわかりやすく例えるならば

学生が就職活動の面接中に「御社の活動に感動しました」

を「弊社の活動に感動しました」と言って

大笑いされるようなものだと。

中西進氏は「善い命令なら聞くでしょう」「そのような

善き振る舞いが出来る人が令息であり令嬢であり」と

言ってたが、間違った言葉の使い方をする人が

善い命令が出せるわけがないと解釈したほうが良いわけか。

その一方で私が良い考え方として同意できたのは

国文学研究資料館教授で

テレビでもお馴染みのロバート・キャンベル氏の意見のひとつ。

万葉集の序文が中国古典の影響を受けていることで

グローバル化するいまの時代にふさわしい」と評価したと。

つまり万葉集は国書で日本人が独自に作ったものだとか、

もとは中国で生まれたものであることをなぜ認めないのかで

もめるよりも双方の良いところを認めるほうが

国際化するいまの日本にとって有意義であると言いたいわけだ。

そっちの方は平和をもたらすということでは納得できる。

もっとも「令和」の言葉が

「平和と安寧、人びとの穏やかな幸福を願う思いを季節の移ろいに重ねた」

と前向きにとらえたことについては、

これまでの「令」と「和」の関係についての論争とは

一線を画した感想として

そういう読み方もありかと考えさせられた。

新年号に願う思いはみな同じだと信じたいが

果たしてその通りになるかどうかはまだわからない。

自分たちで探すしかないのだから。

shiraike.hatenablog.com

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