2本の映画「4ヶ月、3週と2日」「闇の子どもたち」

CSテレビで見たかった映画を2本見た。
4ヶ月、3週と2日」(2007年・ルーマニア)と「闇の子どもたち」(2008年・日本)だ。
「4ヶ月…」のほうは、ルームメイトの中絶手術の手配を手伝う大学生オティリアを追う形で物語が進められているが、
最初は当時のチャウシェスク政権の批判をテーマにした映画だと思った。
しかし見ていく内にこの映画はそういうことを伝えているのではないと感じた。
中絶をうけるルームメイトのガビッァは、どこかルーズでだらしない女性として設定されている。
それをオティリアが自分のことのように中絶をすすめるために奔走していくのだが、
なぜかガビッァを必要以上に追い込んだりすることはしない。むしろ苦しくてもガビッァの立場に立とうとし続けるのだ。
そこには単なる友情という言葉だけでは表せないものがあった。
オティリアにも恋人がいる。家族公認で付き合っている。しかし友人の中絶を手伝うことで
恋人にも口に出来ないことをしてしまう。追い詰められたことで
捨て身になる自分を正当化することで悩み続ける。でも目の前にいる友人、医者、恋人を信じて守り抜かなければ
ならないその姿は、誰のためでもなく自分のためにやっていることだと訴えたかったのかもしれない。
オティリアは苦しみながらも自分なりの答えを出し続け、誰も傷つけなかった。そして何事もなかったかのようにすべてを終わらせている。
そこには「簡単には絶望しない」といったメッセージを出していたようだった。

「闇の子どもたち」は、タイの児童買春や臓器売買をテーマに梁石日が小説にしたものを映画化したものだが、
そこでも事実を伝えるために苦悩を内に秘めて生きるジャーナリスト(江口洋介)と
自分に出来ることを追求するために現地の児童救済NGOに入った日本人女性(宮崎あおい)、
そして児童買春組織や子どもたちや心臓移植を望む家族などのそれぞれの内実がからみ、
社会の矛盾以上に、自分たちの立場で何が出来るのかという苦悩が物語全体を覆っていた。
しかし最後には、自分たちなりの「絶望を救うための答え」を必死になって出し続け、本当の希望である
「この重い問題を知ってほしい」という希望へと繋げている。
どちらの映画も、どうしようもない問題が降りかかってきた時に
自分に何が出来るのだろうか。生きる希望を失わないために
人間として失っていけないこととは何かということを強く語っていたようだった。
ただの社会批判ではない熱いメッセージをこの2つの物語に感じた。
絶望を感じても、簡単に希望を捨ててはいけないことを。