宗教者が核燃料サイクル事業廃止を求める裁判を起こした

26日に映画「原発を止めた裁判長 そして原発をとめる農家たち」を

見てきたが、会場である日本福音ルーテル稔台教会の

内藤新吾さんは、青森県六ケ所村の核燃料サイクル事業廃止を求める裁判の

原告団の共同代表を務めていること、というよりは

この裁判自体をこの日に初めて知ったのだ。

www.kakunensaiban.tokyo

会場にあった原告団NEWSを読むと

昨年7月7日の第4回口頭弁論期日を迎えたことの

詳細について書いてあった。

1) 宗教者・信仰者として「核といのちは共存できない」と訴えるために

2) 核燃料サイクル事業は「倫理に反している」と訴えるために

3) 過酷事故となり得る青森県六ヶ所村原子力施設(再処理工場など)の運転差止めを求めるために

4) すべてのいのちを脅かす「原発平和憲法に違反している」ことを司法に問うために

5) 電力の大消費地で立地現地との不公平(差別)に無感覚な都市住民の責任を照らし出すために

6) 宗派・教派を超えて宗教者・信仰者の使命を果たすために

 

これは上のHPから貼り付けた「提訴決断の理由」。

原告団は宗派を超えた繋がりで結成され、

4回目の口頭弁論では

仙台市のお寺で住職を務める

梅森寛誠さんが証言の陳述を行った。

その中で触れていた「増上慢」への戒めが

「法廷にいたすべての人の心に突き刺さったと思います」。

日本カトリック正義と平和協議会事務局・昼間範子さんのルポより)

梅森さんによると、増上慢は過度の驕り慢心をもつ者を指している。

地元宮城の女川原子力発電所東北電力)が

外部電源の一部を除いて断絶、津波被害まで80cm未満という

危機一髪、原発に通じる全ての道路が寸断されて

避難は絶望的で住民は閉じ込められる。

いまの原発の安全性はまさに増上慢そのものであって

もしも核燃料サイクル事業の施設で事故が起きたら

その深刻さは原発の比ではないのだと。

科学的においても核燃料サイクル事業は

その中身そのものに危険性があり

地震による損害は多大なものになるといわれているのに

事業者側(日本原燃)は過小な数字を根拠にして

安全性だけを強調する。

宗教の力は科学技術よりも弱い(説得力が)とされているが

心の問題として、自分たちが目指す世界とはなにかを

再び見直すという効果がある(誤って使うと旧統一教会になるが)。

工事を続けながらも完成そして稼働がいつになるかが見えない

六ヶ所村の惨状こそが増上慢そのものだと私も思う。

そして原発や核が存在する社会に未来はないとも。

裁判はこれからも続く。

祈りを超えた「核と人間は共存できない」ことを証明させる

たたかいはこれからなのだ。

www.nskk.org

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