上越新幹線もう開業40周年だけど

月日が経つのも早いものなのか。

それも忘れていたことを思い出した頃に。

上越新幹線が15日に開業40周年を迎えたことだ。

東京新聞15日夕刊社会面より)

ほんとうなら思い入れがあることを書きたかったが

私にとって東京と新潟を往復した思い出は

上越新幹線の前身である

181系の特急「とき」だったのだ。

いまは長岡市になった三島郡寺泊町に実家があった

家長(父・80代)と家族一同で帰省する時に利用していたのが

この特急だった。まだ東海道・山陽新幹線しかなかった時代だった。

こんなに長く列車に乗ったことは子どもだった私の記憶に

いまだに多く残っている。

上りと下りで上越国境を違うトンネルで通過したこと。

途中の高崎で買った「とりめし」がおいしかったこと、

長岡駅について今は亡き叔父の車でさらに

遠い道を抜けると、

越後線(当時は国鉄、いまはJR)の単線と踏切。

そして「桐原」という小さな駅を通り過ぎた近くに

「お父さんの田舎」の家があった。

親戚たちと集まって賑やかに食事をして

翌日はまた山を越えて寺泊の海岸へ。

クラゲに注意しながらみんなで海で遊んだ楽しい思い出。

笹だんごのおいしさを初めて知ったのもこの時だった。

しかし、上越新幹線が開業した頃は

もうそういうことが無くなってしまった。

1982年、私は小学6年生。

反抗期が芽生えて家族旅行に拒否感が出始めていたのだ。

だから上越新幹線は一人旅で何度も利用した。

北陸や羽越本線方面(長岡・越後湯沢)の乗り継ぎや

SLばんえつ物語号に乗った時、

前述の越後線弥彦線を完乗したことや

Jリーグのヴァンフォーレ甲府の応援に行ったのも。

しかし、あの在来線時代よりは

記憶として残らなかったのだ。

むしろ政治路線とか温泉リゾートマンションの失敗とか

新幹線誘致で逆に町の賑わいが消えたとか

負の遺産」ばかりのニュースを見ることが多かったのだ。

上越新幹線は地元にとっての悲願だったが

そればかりに頼っても

「裏日本」のレッテルが貼られた

新潟県の暗いイメージを脱することが出来なかった。

しかし、中越地方を襲った大地震のとき

車両が脱線しながらの犠牲者が一人も出なかったことが

地元新潟県にとって

ひとつの希望につながったのも事実だ。

そしていまでは、

ハッピーターン亀田製菓

三条や長岡などのご当地ラーメンの東京進出、

AKB48のグループ誕生や

バスセンターのカレーや

焼きそばにミートソースをかけた「イタリアン」

そうそう、燕三条駅沿いにある

工場群から刃物製造の技術を活かした

新しい商品がネットでも大ヒットしているし。

新幹線に頼らず、むしろ新幹線の利点(関越自動車道もだけど)を

利用した「地元おこし」」が

いま、とても活発になっている。

これから先も上越新幹線

地元をさりげなく盛り上げるための

よき「脇役」であってほしいと思う。

 

寺泊の家は昨年整理した。

叔母や叔父が亡くなり

唯一の家族である家長も、新幹線どころか

クルマでも長時間の移動ができない体になったからだ。

残ったのは子どもの時の思い出だけ。

もうそれだけだ。

 

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