きのう届いた「新聞うずみ火」の
最新号(2022年9月・通算203号)を見て、
事実は驚くべきものだったのだ。
昭和20年代に首相を務めた吉田茂が亡くなったのは
1967年(昭和42年)10月20日だが
「吉田学校」の門下生である当時の佐藤栄作首相は訃報を聞いてすぐに
「国葬とすべし」と命じた。
この状況を知っていた当時園田氏の秘書だった
平野貞夫氏(87歳)が取材にこう答えている。
佐藤首相は、国葬に法的根拠はないが
「皇室の公的予算である宮廷費扱いの
「野党の了解を取れば閣議決定でやれる」
公明と民社(党・その後新進党に合流して消滅)は納得する。
今夜中に説得しろ」という内容だったという。
ではどうなったかというと
山本幸一書記長と柳田秀一国対委員長と
当日のうちに園田氏が会って二人とも了承したのだ。
まったくの抵抗をせず
スピードぶりに社会党はなすすべもなかったのだが
その理由が驚くべきものだった。
この年の6月に横路節雄衆議院議員(これも当時)が亡くなった。
長男の孝弘氏(のちの北海道知事・衆議院議長)ら家族が
議員宿舎を出ざるを得なくなり
「弔慰金(約450万円)の範囲で住宅を世話してほしい」と
前述の柳田氏が園田氏に依頼したという。
「狭き門」をくぐり抜けて抽選に当たるように
横路氏の遺族が購入できるように取り計らった。
それが「弱み」となって
国葬への説得を断りきれなくなったのだと平野氏。
両院議員総会では「黙認したのと同じ」と
多くの議員が国対委員長である柳田氏を突き上げ
勝間田清一委員長ら執行部も苦境に立たされた。
(その後、翌年の参議院選挙の敗北の責任をとって辞任。)
ちなみに吉田氏よりも長く総理を務めた佐藤氏は
1975年(昭和51年)6月3日に亡くなったときも
与野党伯仲の国会で「待った」がかかり
決めたというから、
やはり野党がしっかりしないと国民が納める税金を浪費する
「国葬」を止められないということらしい。
しかし反対のネット署名は好調で
街頭の行動も当日を含めて加熱している。
そして世論調査でも自民党と旧統一教会との関係が明るみになって
「国葬反対」が賛成を上回った。
岸田内閣はかっての佐藤内閣のようにはいかない
世論からのブーイングをどう振り払うのか。
そして「維新」や「国民」以外の野党は
どこまで抵抗が出来るのか。
私も反対、しっかりと意思表示を続けていきたい。
黙っていたら「負け」なのだから。